見出し画像

Vtuberの引退と死、そして転生示唆という黒魔術を引き起こしたものについて

先日にじさんじ一期生の勇気ちひろさんの2018年から始まる6年間の活動が幕を閉じた。

しかし、その一方で勇気ちひろさんとの関わりが強かったVtuberから、勇気ちひろさんの中の人の転生先を示唆するようなポストが投稿され、賛否両論の反応が寄せられた。

賛の声を見てみると転生を示唆したVtuberと勇気ちひろさんの中の人との関係性が継続していること(地続きであること)や、またあの声が聴けることの喜びの反応があった。肝心なのは次なのだが、否の声を見てみると明確な拒否反応が見られた。

「ありえない」「にじさんじってこういうスタンスなのか」「驚いた」

など、言ってしまえばVtuberという存在のタブーを踏んだかのような、反射的で未だ論理的に言語化されない反応にあふれていた。

そして私は後者のスタンスに身を置くものとしてこのネガティブで反射的な拒絶がどのような論理や歴史によって構築されたのか、ということをこの記事で明らかにしたい。本人以外からなされた転生示唆という行為に対するVリスナーの拒絶反応を、クレーマー的な「やっかいな意見」として終わらせたくないのだ。それは貶すためではなく、Vtuberにまつわる何かを尊重した結果出力されたものである、と確信しているからだ。

また付け加えておくとこの記事は「誰が悪い」ということを述べる類のものでもない。私はただ賛否の声がいかに構築されたのかを考えているに過ぎない。また私の論理を自分の立場を擁護するために適用することは構わないが、それは私の論理という武器を「あなたの考え」で使っているという認識は必要であると考える。


では先に答えを言ってしまえば今回の問題とその賛否の反応は「Vtuber達とリスナーの目線の違い」と「過去のVtuberと今のVtuberへのまなざしの違い」という二点に集約されると考えられる。

Vtuber達とリスナーの目線の違い

最初に「Vtuber達とリスナーの目線の違い」について述べたい。

これは当たり前な話だがVリスナーはVtuberが配信しているときの姿しか見ることはできない。それはRP(role play)の有無にかかわらず「わたしは○○(Vtuberの名前)である」というVtuberの自己認識、そしてリスナーの「彼・彼女は○○である」という他者認識を前提とする姿だ。

一方でVtuber同士の場合この前提は崩れる。配信していない時間に彼らがいかに交流しているのか、ということをただのオタクである私が観測できるはずもないが、「配信を介さない交流」が配信を介する交流と性質を異にするということは推測できるだろうし、その交流があったからこそ今回のような転生の示唆やリスナーとの目線の違いが生まれたと考えられる。

その性質の違いとは言うまでもなく「明確な自己・他者認識を必要としない」ということだ。ここで注意したいのがRPをする姿を「偽の姿」とし、オフの姿を「本当の姿」と考えず、Vtuberという主体が複数の性質を備えていると考えることだ。配信を介さない交流によってVtuber同士はいわゆるオンの姿とオフの姿の2つの側面を認識することとなる。そこで捉えられる姿はVtuberとしての彼らと中の人としての彼らとの境界が曖昧になったものであると考えられる。

だからこそ配信中のVtuberしか認識できないリスナーと、Vtuberと中の人とを峻別できない形で複数の側面を認識した(せざるをえなかった)Vtuberとの間に、当該Vtuberへの視線のギャップと認識の違いが生まれてしまった。

その結果Vtuberの転生示唆という行為はリスナーにとっては断裂した文脈を無理やりつなぎ合わせる、黒魔術のような後ろめたい死者蘇生のように映ってしまった。

これは持論が混じっていることを断っておきたいが、Vtuberとは文脈によって構築され、成立していると考えられる。文脈にはVtuberが生まれる(デビューする)前から存在していたプロフィールや容姿のような先天的な文脈と、配信活動を通して培われる後天的な文脈の2種類がある。

この文脈のいずれもがリスナーにとってはVtuberの「名前」と「容姿」とに結びついている。つまりこの両方を破棄するという転生という行為は文脈の破棄、ひいては存在の破棄と同義である。

だがこれはリスナー目線での話だ。配信を介さない交流で培われるVtuber同士ではリスナーの知りえない新たな文脈が育まれる。新たな文脈は新たな他者認識を可能にすると同時に、その文脈を共有しない人間(リスナー)とのギャップを深める。今回そのギャップが転生示唆という行為への賛否という形で可視化された。

繰り返して言うがこれは誰が悪いという話でもない。VtuberにはVtuberの主観があり、彼ら・彼女らはその主観に則って行動を起こしたというだけの話だ。またリスナーも彼らの主観と合致しないVtuberの転生示唆行動にある種当然の拒否反応を起こしたのだ。両者の行動や反応に悪意は介在していない。ただ認識に相違があっただけのことだ。

過去のVtuberと今のVtuberへのまなざしの違い

次に「過去のVtuberと今のVtuberの違い」について考えていきたい。これはVtuberのリスナー全員が今回の示唆行動に肯定的・否定的なわけではない、という現象の要因の1つであると考えられる。

特に今回の場合に限ってこの要素が強い要因として、勇気ちひろさんが2018年というVtuber文化が醸成し始めた時期に現れた存在である、ということを挙げられる。

当時Vtuberは個人勢などを中心に「仮想の、オルタナティブな自分を構築すること」に焦点が当てられていた。そしてその活動の結果、物珍しさからそれを観測する視聴者がいた、というようにVtuberを観測するリスナーは単なる副産物であった。この論を補強する事実として当時の個人Vtuberの多くは配信活動を続けるのではなく、VR Chatなどにその活動拠点を移しているという事を述べておきたい。

一方で「にじさんじ」がその初期ライバーの注目度の高さによって「アプリ開発事業」から「タレント事務所」に方向性を変えたことに象徴されるように、Vtuberという存在は「自分や世界を変える手法」から「見られるために仮想の自分を作る手段」へと変わっていった。

このVtuberという存在の意義が二分される時代にデビューしたのが勇気ちひろであり、ファンの考えも二分されていたり、どちらかのスタンスに偏っていると考えられる。だからこそ今回の問題に対する反応には肯定も否定もあるのだと考えられる。

転生示唆に対して否定的な声が挙がったのは、オルタナティブな自己の表現様式としてのVtuberの側面を尊重した結果ではないか、と推測される。実際私が否定的な面持ちになったのもこの要因が大きい。それは配信中のVtuberを1つの人格として認識し尊重した結果である、ということを明記しておきたい。

まとめ

以上「Vtuber達とリスナーの目線の違い」と「過去のVtuberと今のVtuberの違い」という二点から、今回の騒動について考えてきた。私と同じように否定的な気持ちになったけど、にじさんじやVtuberは大好きなのは変わないので、自分の否定的な立場や考えを表明・分析できず苦しい、という人に向けて書いたつもりだ(もちろん自分が楽になるためでもある)。

この世界は結局人間という主観の生き物が回しているのだから、その主観の相違によって衝突があることは当然だ。しかし、その衝突は不幸な事故であり、そこに悪意が含まれていることは稀である、という事を認識して全人類が健やかに生きて欲しいと切に思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?