Vtuberによる歌の特殊性 キャラクターという文脈

Vtuberが歌を歌うという事象に対して、何か特殊な感動を抱いたことはないだろうか。私はある。それは言語化の難しい感覚だったが、「キャラソンに似ている」という端的な思い付きでスッと胸に落ちたのである。

キャラソンにはアニメのキャラクターが歌っている、という強力な文脈が存在する。アニメで展開されたキャラクターの個性そのままが自身を歌っているのだ。この特殊性は一目で分かるだろう。その歌の主は人間だったり、ロボットだったり、怪異であったりすることが可能で、その個性が違和感なく聴く側に了承されるのだ。

実はVtuberの歌にも同じことが言える。彼らはアニメのキャラクターと同様に一般人から一線を画す個性という文脈を身にまとっている。人間、非人間、学生、とっぴな職業、異界の存在……etc

この強力な文脈をまとった彼らの歌には否応なく、彼ら自身の文脈が覆いかぶさってくる。彼らがキャラクターであるという一点だけで歌の性質が丸ごと変わってしまうのだ。

この傾向はVtuberの「歌ってみた」に目を向けることで明らかになる。Vtuberが既存の曲を歌う時、それは「既存の曲を歌う○○」という後づけ的な印象ではなく、「○○が歌う新たな文脈の曲」という全く異なる様相を呈する。これは曲の文脈を間借りしているという段階を超えて、曲の文脈を自身というキャラクターの文脈で塗りつぶしている、あるいは曲の力を借りて自身の文脈を拡張していると言える。

(その実これはキャラクターと視聴者の間で紡がれた共同幻想のようなものであるが、そのような不確かな存在も承認されるのがVtuberという基盤の危うい存在の面白いところだと思う。)

しかし、これは見ようによっては印象の悪いことかもしれない。なぜなら曲の文脈を利用することで、本来の曲の文脈を超えて自身というキャラクターを展開していることになるからだ。

だが個人的には「その曲を選ぶ」ということすらも既にキャラクターの一部であるという点で、曲とキャラクターの共通項を見出せるのであり、曲を尊重せずに、むやみやたらに自身の文脈を覆いかぶせている訳ではない、とも考えられる。曲とキャラクターが出会う必然性を見出せる、というようにも換言できる。

以上のようなVtuberの「歌ってみた」称揚の上で、やはり私はVtuberのオリジナルソングは至高だと思うのだ。

Vtuberとアニメのキャラクターの最大の違いとはその主体性の有無だ。アニメのキャラクターはキャラソンを歌うことはできるが、オリソンを作ることはできない。

一方で自身が自身を展開するというVtuberの主体性が純粋に現れるのがオリジナルソングだ。自身の存在を客観的に反省した上で、さらに奥深くまで内省し、さらに展開するために出力する。このプロセスの結晶であるオリソンのキャラクター強度というものは計り知れない。

以上本稿ではキャラクターという文脈によって曲そのものに特殊な文脈が帯びるというVtuberの歌の特殊性、さらにVtuberの性質がオリジナルソングに強く反映されることを主張した。


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