あー
死ぬ間際に「あー楽しかった」と言って死ねたらいいね。
そんな言葉を聞くことがある。なるほど、理想的だ。
でも、自分にはそれは難しいかな、と思っている。
というのは、僕の祖父母はいずれも晩年に認知症になり、最期は息子や孫が誰かもわからないような、ぼんやりした状態でこの世を去ったからだ。家系的に僕もそうなるような気がしている。
人には、いや少なくとも僕には、人生を総括する機会は訪れないのではないか。
あるいは突然命を落とすかもしれない。実際、若い頃に車で大きな交通事故を起こしたことがあるが、その時は何も考えられなかった。ハンドル操作が利かず猛スピードでガードレールに突っ込むまで、ただ驚きと焦りだけがあった。ぶつかった時には、確かに噂で聞いた走馬燈のようなものが一瞬浮かんだ後、眼の前が真っ白になった。
「あー」の後に継げる言葉はなかった。あそこで死んでいた可能性もある。
人は、いや少なくとも僕は、何もかもが途中で、中途半端なまま、思い残したまま、この世を去るのかもしれない。
もし運よく老衰で死ぬまで生きられたとしたら、例のぼんやりとした意識の中で、僕は何を思うのだろうか。
過去も忘れ、家族や友達の名前も忘れ、顔も忘れ、面影すら忘れ、ここがどこかもわからなくなって。
何も締めくくれない薄いもやの中で。
それでもきっと、俺はこの人生で優しい人に会ったぞ、優しい人がついてるぞ、ということは忘れないと思うのだ。
あなたの御寄附は直接的に生活の足しになります。