ボーイフレンド / aiko

世界には、aikoを讃える千の言葉がある。

それはきっと的確で、適切で、また美しいから、僕が付け加えることは何もない。

だから僕は他の誰にも語り得ない、個人的な思い出を書き留めておくことにする。

大学時代のある日、男女のグループでカラオケに行った。

90年代の若者にとってカラオケは教養であった。大して興味もない新譜をチェックしてレパートリーにしたり、歌詞に秘めた想いを託して歌い上げたりしていた。平安時代ではなく平成のことである。

誰もが歌が得意なわけがない。というより、大抵の人間は下手である。

A子も歌が下手だった。歌が上手い女性は素敵だなあ、と思うがしかしA子は下手だった。

カラオケの同調圧力というのは嫌なもので、僕のように、自分ばかり歌っていると気まずくなってしまい、無理して人に歌うように勧める者もいる。

さだまさしや尾崎豊を歌っていると場が暗くなってくるし、ブランキー・ジェット・シティを歌っていると場が荒んでくるという理由もある。

「なんか歌えよう」

僕はA子に言った。

彼女は慎み深いので、そう言うといつも何だかよくわからんR&Bみたいな曲を歌う。またそんなのを入れるのだろう。僕は次に自分が歌う曲を探していた。

おや、A子の番が来たようだ。

ボーイフレンド 作詞 aiko 作曲 aiko

えっ?

お前、ボーイフレンド歌うの?

彼女は仕方なさそうにマイクを手に取る。

軽快なバンジョーに導かれてイントロが始まる。

オラッ何やってんだ、まずここで「イエッヘェー」みたいな謎のシャウトを入れるんだよ!

彼女はいつものように座ったまま歌う。

うん、下手だ。

サビに行っても、下手だな。

うら若い娘が「ah~」なんて言うのだから少しはドキドキしても良さそうなものだが、僕はまんじりともせず彼女の歌を聴いていた。

2番に行ったらうまくなるんじゃないか。

間奏が終わったらうまくなるんじゃないか。

ラストはバンジョーの前に「ハイ!」と言って締めるんだってば。

…見事に最後まで全編下手だった。アルファからオメガまで下手くそだった。

「難しいね」

そう言った彼女は照れたようにもシラけているようにも見えた。

相変わらずよくわからない奴だ。

A子は僕がaiko好きだということを知っている。

家で、歌詞カードを追って練習くらいしたのだろうか。下手なりに。車の中で歌ったのだろうか。

僕は別にA子にリクエストしたわけではない。

女たちは少しも僕らのリクエストに応えたりしない。ドリカムやら椎名林檎やらいきものがかりやら、どうでもいい歌ばかり歌いやがる。

それが、人生でたった一度だけ起きた奇跡。

僕のガールフレンドになることはなかった一人の女の子が、僕の好きな曲を歌ってくれた出来事だ。

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