見出し画像

王子とじいや

人は、いくつぐらいから物心がつくのだろう。

少なくとも僕の意識がはっきりし始めたのは、保育園児の頃。

ヒナ鳥は初めて見たものを親だと信じ込むというが、自分の保育園の送り迎えを担当する老人に親近感を覚えたのは、自然なことだろう。

白髪に四角い眼鏡をかけて、暖かい服を着て、いつも草木や花に水をやっていて、笑顔で頭を撫でてくれる人。

おじいちゃんは、僕が生まれた時からおじいちゃんだった。

とにかく僕には甘い人で、怒られたのは、夕飯時に何かしら腹が立ってスプーンを投げた時、この一度だけ。それきり怒られたことはない。

その頃、我が家は建て替えのため、一時、借家に住んでいた。遊園地のびっくりハウスのような、ハリボテの家だった。

借家は保育園から遠かったので、祖父が駆るスーパーカブの後ろに乗って通った。

ある日の帰り道。田んぼの真ん中を機嫌よく疾走していた僕たちは、警官に止められ、反則キップを切られた。

子供はおまわりさんやパトカーが好きなものだが、僕はその時点で警察は敵性集団だと認知した。早熟だ。

小学校に上がり、学校から帰ってくると、必ずおやつが用意されていた。

類型としては、ポテトチップス系、三色パンみたいな適当な菓子パン系、そして焼き芋とかトウモロコシなどの農作物系。

なぜ毎日おやつが出たのかというと、母曰く、祖父はお坊ちゃん育ちで、毎日おやつを食べていたからだろう、ということだ。

祖父は大分県の生まれだが、事業を営んでいた父親に連れられて、幼くして満州に渡った。

双子の弟を生後間もなく亡くしているが、祖父も生来頑強ではなく、徴兵検査に落ち、事業家の息子として、比較的気楽にあの時代を生きたようだ。

そうは言っても戦中派。祖父は、僕と兄の腹の具合にはやたらと敏感だった。

おもちゃをよく買ってくれた。「借りたんや」と子供でも0.5秒でわかるウソをついてファミコンのカセットを買ってきてくれた。クソゲーだった。

マンガ雑誌やゲーム情報誌を、発売日を忘れず買いに行ってくれて、黙って子供部屋の階段に置いてくれた。

「ビックリマン欲しい」「マンガの増刊号が出た」「ミニ四駆の強化パーツが欲しい」

孫の望みを叶えるためにスーパーカブで東奔西走する祖父は、僕にとって絶対的な擁護者だった。

仮に僕が「アメリカ大統領になるわ」と言っても、彼は全力で応援してくれただろう。

小学校時代のアルバムを見ると、さすが我が家の王子、水族館に行った時のもの、運動会のお昼休憩の家族の食事時間などが、たくさん残っている。

祖父は大抵険しい表情をして、用心棒のようにこの神童の傍に立っている。

中学・高校時代にページを進めると、写真の枚数が途端に少なくなる。運動会、文化祭、そんなイベントの際のものが断片的に残っているが、遠い。

距離が、遠い。

英雄伝説の主人公が、豆粒のように小さくしか写っていない。

祖父は、僕に気づかれないように、いつも遠くから撮影していた。

高校時代、弁当を忘れると、祖父がスーパーカブで届けに来た。当時の我が国の技術水準では、これを阻止する手立てはない。

いつ来るか。いつ来るか。そして授業中、廊下側の窓に小さな黒い影が動く。嗚呼、来てしまった。

売店でパンでも何でも買えるんだけどな。

その頃、既に憂国の士となっていた僕は、「あの戦争は防衛のためだった」「日本はよいこともした」といったことが書かれた本を、熱心に読んでいた。

満州時代の思い出を語る時、いつも饒舌になる祖父は、きっと喜ぶだろう。そういった本を読ませたことがある。

祖父は微かに笑って、「この本に書いてあることは、正しい」と呟いた。

ただ、その一言だけしかなかった。

祖父母は、1945年に生まれた長男、僕の父を負ぶって「血の涙を流しながら」38度線を越えて引き揚げてきた、という話を1,000回以上聞いた。

祖父は少しだけ英語とロシア語が話せた。そこで働いたという米軍キャンプの様子や、突然ソ連兵に出くわした森林の風景が、僕の目の前に現れた。

最終的に、戦火を免れた祖母の故郷、金沢まで落ち延び、我が家は石川県に居を構えた。

お坊ちゃんが、裸一貫の再出発。当然うまくいかない。

人の紹介でいろいろな仕事に携わったが、その享楽的な気質を遺憾なく発揮するトラブルメーカーだった。

設備関係の仕事でボイラーを爆発させて大手術をする大やけどを負ったり、誰にでもいい顔をしてすぐに連帯保証人になったりと、祖母は気苦労が絶えなかったという。

そして、ある日、莫大な借金を負った。いわゆる「保証かぶり」だ。

一国一城を求めて金沢から移り住んだ片田舎の町に、今では見かけないタイプの借金取りが、電話・訪問あの手この手で攻勢をかけてきた。

嫁いできたばかりだった僕の母は、一瞬で髪が真っ白になった。

生活は荒み、祖父は自暴自棄になって素行不良になり、我が家は町内会や婦人会をことごとく除名された。

銀行員の父が、教師の母に「もう心中するか」と言った。僕の兄がお腹にいる時のことだった。

祖父は家族の前で土下座して謝った。

「いいジジイになるから、家に置いてください」

祖父には、語られなかったこと、聞かなかったことが、たくさんある。

大学生になり、ふと母の育児日記を見つけた。

母が庭で祖父のサンダルを履いていると、僕が「それ、おじいちゃんのやぞ」と注意してきた、と書かかれており、「この子は正義感の強い人になりそうです」と締めくくられていた。

僕は、物心つく前から祖父びいきだった。

正義漢は、ちゃんと二十歳を過ぎてからタバコを吸い出した。

肺がんをやって肺を切っている祖父も隠れ喫煙者で、実家に帰った際は、ヤクザ映画のように、互いに火をつけ合った。

ライターのレバーが「+」最大になっていて、火柱が高々と上がった。まつ毛が燃える経験とは得難いものだ。僕らは悪友で、よく一緒にコーラを飲んだ。

一人暮らしをしていた僕も、祖父がスーパーカブで事故を起こして入院した時は、車を飛ばして駆けつけた。父からもらったマークⅡ。ハイオク仕様だ。

「ヒロシは来てくれると思っとったわ」

祖父は笑っていた。

大学を卒業した僕は、地元の国立大学に就職した。県庁の採用試験に2回落ちたから、もう諦めた。

イラク戦争が開戦した平成15年3月20日。僕の方は、通勤中、マークⅡを大破させる大事故を起こし、両脚を骨折した。

3か月の入院。控えめに言って重傷である。

足繁くお見舞いに通ってくれたのが、祖父、この忠実なる従者である。僕の好きな牛乳を届け、スナック菓子を届け、雑誌を届けてくれた。

女友達がお見舞いに来た時は、「ヒロシの祖父でございます」と、うやうやしくお辞儀をしていた。

その後、この麒麟児は、上京して霞が関で働くようになった。

実家に帰るのは盆暮れ正月。

子供の頃は、大晦日から日付が変わると、祖父と一緒に、雪道を歩いて地元の神社に初詣に行くのが定番だった。もう祖父は自室から出てこなかった。

ある時、藪から棒に外国の硬貨をくれた。

セント硬貨は娘、つまり叔母がアメリカに住んでいた時のもの、ルーブル硬貨は私が中学生時代にロシアの姉妹都市に行った時に持ち帰ったものだ。

何枚か、財布に入れてある。

東京で暮らし出してから、祖母が人生の最期を歩み出した。認知症になり、すい臓がんになり、市民病院で寝たきりになった。平成17年頃のことだ。

祖父は、看護師さんが感心するくらい、毎日、見舞いに通い、面会時間いっぱいまで傍で過ごしていた。

祖母はもう僕のことは誰だかわからなかったが、この傍らの老人が「とうちゃん」だということはわかっていた。

僕はふとiPodにさだまさしの唱歌・童謡が入っていたことを思い出し、イヤホンで聴かせてやると『早春賦』などを嬉しそうに歌った。

祖母は長く保母さんをやっていたので、この辺りは一通り修得しているのだ。

祖父はたいそう喜んで、「ありがとう、ありがとう」と言った。

「妻の持つ 古びたる写本 九十銭 昭和十四年 辻と旧姓」

この頃の祖父の短歌である。

祖父母は短歌を趣味としており、祖母の作風は花鳥風月を歌う凛としたものが多かったが、僕は祖父の哀愁ある作風の方が好きだった。

祖母は、少女のようにフワフワとした、夢見がちな人だった。

テレビの動物番組でライオンが獲物を捕らえるような場面になると「消してや」と言って目を背け、野良猫を憐れんで餌を与え、無限増殖させる。不都合な真実を忌避する人だった。

「わしは、生まれ変わってもまたばあちゃんと一緒になりたいと思っとる」と祖父が語ったことがある。

祖母が浮世離れした人だったから、切り抜けられた人生だったのだろう。

僕が結婚した翌年、平成22年の雪の日。散歩道の海辺の火葬場から、祖母は天に昇っていった。

父母からも妻からも訣別の言葉を聞いていない。一面に降り積もった雪は布団のようで、皆の安眠を祈る、そういう趣旨の歌を、後日祖父は詠んだ。

北陸新幹線が開業した平成27年3月14日、僕は金沢駅まで世紀の瞬間を見に行った。我が家の最寄りの小さな駅も、新幹線効果。エレベーターやバリアフリートイレなど、随分と綺麗になった。

保育園の頃、祖父に頼んで連れてきてもらい、本数の少ないこんな田舎の駅で、青緑のペンキが剥がれた金網越しに、ずっと電車を見ていた。

実家からの帰り際、いつもは玄関で見送るだけの祖父が、表通りまで送ると言う。

しかし、もう目も耳も弱っているので、逆に僕が祖父の手を引いて連れていくような形になる。

ふと、強い既視感に包まれる。

30数年前、保育園児だった私は、新築のこの家の前を、こうやって祖父と手を繋いで歩いた。

私は込み上げてくるものを、「おうおう、大丈夫かいや」と口に出して逃がした。

その後、祖父は認知症になり、身体の衰えも著しくなったため、市民病院に入院した。

お見舞いに行くと、腕に巻かれた事務的なラベルに、姓名と誕生日が印字されていた。

1919年。行く行くパリへヴェルサイユ講和条約。

会話はない。目もほとんど見えない。耳も果てしなく遠くなり、ご飯を食べるだけの人になった。

別れの言葉を交わす機会は、訪れなかった。

当たり前だ。生きている人に「さようなら」なんて言うわけない。

食事の様子をずっと見ていたが、暇なので肩を揉んでやると、祖父は「ありがとう、ありがとう」と2回呟いた。

手を握ると、しっかりと握り返してきた。

これは、大学時代から、実家に帰った際の、祖父と私との別れの儀式だった。

市民病院にはいつまでも入院できないので、最後は老人介護施設に入った。

裏山がどうしたとかいう子供の頃の話をしている。

別れは辛いから、人は徐々に記憶を無くしていくように設計されているのかもしれない。

もう、後悔がどうとか、自分の一生良かったなとか、そういう次元ではない。人が自分の人生の結果を評価できる機会は、たぶんないのだろう。

父が一緒に見舞った日は随分と機嫌が良かった。

祖父が突然唄い出す。

「ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね そうよ 母さんも 長いのよ」

2回も唄った。

そうよ、私も随分と甘い人間になってしまったよ。


平成30年4月25日、祖父老衰にて永眠。

享年98歳。大往生である。

末期の水は、コーラ。

葬儀には、祖父の最後の作品になった短歌が色紙で飾られていた。

「かなぶんか 夜の硝子に突き当たり 石と異なる音して落ちぬ」


長かったな。

さようなら、王子とじいやの時代。

あなたの御寄附は直接的に生活の足しになります。