リーダーシップこれそれあれどれ

小学生の頃、「知的生き方文庫」の『リーダーシップの条件』という本を読んでいた。

気味の悪い子供である。

子供の集団では、運動ができるとか見目麗しいとか、そういった動物的に秀でている者がヒエラルキーの上層を占める。

一方、私のように多少お勉強ができる子供は「長」がつく役目を沢山与えられる。

内心喜んでやっていた。動物的コンプレックス強めの私は、人を支配する、人より優れた地位に立つことを欲していたのだ。

今思えば間抜けである。

このようなお勉強リーダーは、言うなれば模範囚、教師の傀儡、サッカーでたとえるならキャプテンというよりゴールキーパーに近い。(正確には「子供のサッカーの」ゴールキーパーだ。)

「しっかりやれ!」「ポジション狂ってるぞ!」と後ろから叫ぶ。チームメイトは全然言うことを聞かない。敵のシュートはバンバン飛んでくる。どれだけファインセーブを連発しても、ワンプレーの失点でバッシングを喰らう。損な役回りだ。

中学生になると、そんなお勉強特性も上の下くらいになってしまい、私のリーダーシップにも翳りが出始めた。

高校生になると学力はさらに下の上くらいに落ち込み、その恩典たるリーダーシップは、もはや見る影もなかった。僭越だが、「客観的に見てもここは俺が引き受けるしかない」と思う時だけリーダーを務めた。

そして大学進学を機に、「リーダー」とか「長」のつく役割は一切やらないことにした。

リーダーをやっている時の優越感、あるいはリーダーだから仕方ないという責任感、義務感、使命感、そういった何もかもに疲れてしまったのだ。

勝手で無責任な一人になりたい、そう思った。

時は経ち。

職を得て、所帯を持ち、気づけば「係長」とか「世帯主」とかいう立場となり、またリーダーの在り方について考えなければならなくなった。

いつか何かの性格診断で「ナンバー2向きの性格。補佐役が適しています」などと寂しい結果が出たこともある私だ。

それでなくても、自分は調整型の人間だなあ、人を引っ張るタイプではないなあ、と昔から思っていた。

リードできないリーダーは、語義矛盾だよなあ…。

そんな風に悩んでいた時にヒントを得たのが、ある部署に出向した際にお仕えした、故・池田守男さんだった。

池田さんは社長時代に資生堂の業績をV字回復させた超一流の経営者。敬虔なクリスチャンで、神学校の出身。長らく役員秘書を務めたバックグラウンドから、「サーバント・リーダーシップ」という新しいリーダー像を実践されていた。

それは、「リーダーシップ」と聞いて想像しがちな「強いリーダー」ではなく、どうしたらメンバーが働きやすくなるのか、どうしたらメンバーの力を最大限に引き出せるのか、ということに腐心するリーダーの姿だ。

これは私の膝を打つものがあった。

そういえば、井上雄彦さんの名作『スラムダンク』で、私が一番好きな台詞は安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」ではない。

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俺はチームの主役じゃなくていい

乱世の奸雄にはなれっこない。

それが私の理想のリーダーシップ。

またの名を、女房の尻に敷かれた亭主。

今のところ、そういうことにしている。

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