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私とSNS

自分が心地よいSNSって何だろうか?

そんなことを考えるきっかけを
友人がシェアしていた
けんすうさんのnoteの記事がくれた。

そこに書かれていたのは


"「何者かになりたくなるSNS」は
そろそろ衰退していくのかな?"


https://kensuu.com/n/nfc5b7403f74e

という記事だった。

フラットなSNS。

私も上とか下とかどうでもいいなーって思う。

黒でも白でもなくて、
グレーが大好き。


何か、自分の太い軸を持っている人とかが、強い言葉で意見を発信してインフルエンスしているのはすごいなーって思うけど、私はそうはなれないなーって思ってる。

言葉の先には様々な人がいるって思っているから。

でも、私は何のためにSNSやってるか?
考察してみた。

私のSNSを投稿する理由。

それは
「何者かになるため」でなく、
「自分に還るため」の発信だなと思う。

隠して生きている、
あふれた自分の置き所。

自分を承認していく訓練みたいな感じだ。
この訓練の先には、
自然体な自分があるのかなーと妄想する。

今は、キザな言葉を羅列したnoteをこっそり書いているけど、よっぽどでないと、Facebookではシェアしない。ハズイから。

noteはリアルな色を
あまりに出していないから、
気にせず発信できている。


それはそうでない自分への反動かもしれない。
仕事では自分の思いをおしこめていたりするので。


だから、私は、様々な場所で自分の出せる居場所を住み分けしている。

それぞれの居場所で表現したい自分を出しているのだ。

それが私にとって楽なのだ。

発信内容にジャッジは求めていないが
やっぱり読んでもらいたいので、
読まれる工夫を最大限する。

なぜなら
そこに祈りのような「願い」を込めているから。
「願い」は、私の使命に通じることだなと思う。

それは「私からあふれた思いの浄化」のようなものだ。

私が発信することで、自分の今までのインプットしていきた知識や経験、ご先祖さまから受け継いできた遺伝子レベルの知恵。もっと、大きなことを言うと、サムシンググレードって呼ばれる「もう、科学的にもワケわからんこと」から、つないでくれた言葉を自分の中に押し留めて置くことは、自分を大切に出来ていないのかもしれないと思うようになった。

そして、その言葉がどこかの誰かが抱えた息苦しい感情を軽く出来たらという「願い」

何かのきっかけにつながった言葉を私を通して、私以外の誰かに伝えられた時に、積み上げられてきた私の存在が輝くような気がするのだ。

今回友人のシェアをきっかけに妄想していき、思わぬ話になっていったが、これもその人と共有したいって「願い」

その「願い」は私からの一方的で良い。

読んでくれる人がいることで、
私の存在は輝くのだ。

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