保育内容「表現」はなくてもいい?アートとエンタメの境界線を明確にせよ
表現について考えたい。
結論と、僕のとりあえずの解を述べると、
領域「表現」は無くしてもいいのではないか?と言うこと。
いや、何を言うとるんだ貴様は💢と怒られそうであるが、とりあえず聞いてほしい。
保育において「表現」ときいて何を考えるだろうか。
絵を描く
歌う
踊る
劇をする
と言うのが王道だろう、まず出てきそうだ。
次に、感性的なものだろう。美しいと感じたり、感動したり。そういった経験が、アウトプットしたいと言う行動に繋がっていく。
そして、津守真も言っている、子どもの行動や言葉、全てを「表現」として捉える、と言うときの「表現」である。
ものすごく大きく分けて、3つくらいに分類されると思う。
ただ、この3つ。全く性格が異なる、と思う。
①は具体的な方法や内容を指し示す。
②は、視覚的には把握できない領域であり、言うなればセンスオブワンダーである。
③は、言ってしまえば【全て】であるが、そうなると、もう森羅万象が表現となり、領域表現が指し示す内容がとっ散らかりすぎて迷子になってしまう。僕なりの解釈で行けば、津守がいうところの表現は、子どもの行動と言葉には意味があり、その意味を理解しようとしている、いわば【姿勢】と捉えればいいと思う。
色々な人が、「表現」っていうんだけど、これだけ趣が異なる言葉を同じ言葉で言うので、たまに疑問符がつくことも、そりゃあるだろう。
3学期になると、劇をするところが多い。
表現ってなんだろうと考えても、考えても、やはりどうしても
表現=劇という公式は、根強い。
いや、子どもの言葉、動き、遊び、全てが表現だろう、と言ったって、じゃあそれをどう発表会にすんのさ、っていう話なんだよな。
だから、もう劇やめようや、って話は何回も書いたし、そう思ってきた。
ただ、劇の見方を少し変えてみると、イメージを共有して、そのためにコミュニケーションとって、なりきってみて、道具を作ってみて、という面白さはある。
じゃあ、見せるという図式についても
すでに2年近く前に書いてある。子どもたちは、繰り返していく中で、「みられる」ことを欲するようになる。
ただ、それには段階とペースが必要だよ、ということ。
そんなことを考えていると、じゃあどうすんだよ、と延々と出口のない袋小路を 彷徨う羽目になるのだが、ある時思った。
表現という言葉ー①の描く、つくる、歌う、と行ったところのアウトプットという側面をもう少し柔軟に捉えてみよう。
そして、それに伴う体験ー感動したり、面白いと思ったりする内容は、君たちがずっと取り組んでいる夢中になっている遊び、である。それは必ずしも劇である必要はない。電車を作っていたり、実験をしていもいい。
そういった夢中になっている遊びを、人にわかる形で表現ーつまりアウトプットする。その形は、多様であってよくて、動画での配信に適した遊びもあるだろうし、写真を並べて可視化した方が分かりやすい内容もあるだろう。
アウトプットの幅が広がると、必ずしも劇一辺倒でなくてもいいことがわかる。むしろ、興味がない劇より、やりたい遊びの方がモチベーションが上がるのは当然だろう。
表現という領域はなくてもいいのではないかとも、思った。
表現と聞くと、固有の芸術領域、文芸、美術、音楽、演劇・映画などを連想させるからだ。
そして、それをすぐに発表などの、形にしてしまうから、か。
つまり、劇はエンタメ要素になりやすい、ということだろう。親を楽しませるためのツールになりやすい、からだろう。
徹底的に遊びとして楽しみ、仕草、ストーリー、見せ方を追求していく。むしろ、探求という側面をフォーカスしたい。
それこそが、芸術なのではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?