発達160津守特集を読んでモンモンとする

津守真の保育者の地平を学生の時に、読もうと手に取ったが、当時の僕には難しく、数ページで挫折した記憶がある。

玉川で行われた保育学会で、津守先生の話を聞いたことがあるが、これも著書と同様にわたしにとっは難解だった、と覚えている。

発達の津守特集では、さまざまな先生たちが寄稿している。

知っていても、識ってはいない。大事なことは言葉にならない

とか。たしかに、保育者としての僕は、「子ども」を識った気になってしまう。大事なことは、言葉にならず、そして安易に一般化してはならない、とも。

物凄く、刺さる言葉だ。

目の前の子どもにどれだけ真摯に、そして謙虚に接しているのか、と揺さぶられる。

ただ、津守先生が全能な保育者というわけでもなく、豆先生の言葉を借りれば、「子どもと交わった具体的な体験を言語化しようと」しており、時には「子どもと一緒にいながら、私は自分のことしか考えてないことがある」と、葛藤や愚痴にもちかい心境を吐露しています。

しかし、綺麗事や葛藤だけを表現するのではなく、そこには細やかな省察から、保育の真へと探求する姿勢が描かれています。

なるほど、すぐに言葉には出せないが、安易に結論を出すのではなく、かつ葛藤や苦しさを吐き出すだけでもなく、保育とは何かを追求し続ける姿勢。

考えさせられる。思考をとめるな。常に、考えよ。

最近、保育計画を立案することになる。

ここのところ、いつも考えている。

良い記録とは
効果的な教育課程とは、指導計画とは
行事はどうする
とか。

目の前の子どもと向き合うときに、確かに計画や意図というのあ邪魔になるということもあるだろう。

津守先生の著書の中でも、大人の価値観が先行したことで、子どもとの関係が崩れてしまったという記載もある。

確かに、当時の(現在はわからないが)愛育はかなり重い発達の子どもたちが通い、計画というより目の前の子どもたちと向き合う必要があったのだろう。

だから、そのまま全ての子ども達の表現を受けとめようということを園の根幹に据えるというのはいささか安易なような気もする。

計画や意図より、子どもたちの興味だけを全て引き受けていこうとするのも、簡単すぎるだろう。

保育とは何なのか。
遊びって何だろうか。

特に、あそびなんだよなあ。日々の遊びと
行事。そこの位置付けが、最近とくに迷う。

遊びが大事ってわりに、行事に走りたがり。

形にしなくていいってわりに、節目で形にしたがる。

可視化が最近、足かせになってきているような気もする。見える化の功罪。

遊びってなんなんでしょ。

悶々とする日々。

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