ひっかかる人は、何にひっかかっているのかー情報生産者になるより

「こだわり」は、保育の中においては、一般的にはネガティブな印象で語られることが多い。

特に、子どもが・・という文脈においては、子どもがこだわりを持ち、なかなか集団になじめないとか、完了できるまでやり続けてしまうといった、こだわり=個々の難しさと解釈される。

まあ、これは見方次第でもあるのだが、大人に視点を変えると、両面の意味合いで語られることが多いだろうか。

あの人は、こだわりがあってね、という時には頑固者で言い出したら聞かないというところだろうか。

他方、並々ならぬこだわりから、良いプロダクトを生み出すとか、革新的な言説を生成する、といったときの「こだわり」はどちらかと言うと、ポジティブな意味合いで使用していることが多いのではないだろうか。

これは、大人/子どもに限らず、こだわる事は両面の意味合いを含んでいるのだろう。


上野千鶴子さんは、情報はノイズから生まれると言います。情報とは、ここでは自分以外の人にとって有益な内容を指します。メディア情報であったり、個人レベルでは広義の意味でSNSもそうでしょう(たぶん)。

ノイズとは、ひっかかりのこと、と上野さんは言います。

自分にとって当たり前のこと、あるいはまったく関心のないことは、ノイズとして引っかかりません。

ん?と思ったり

そりゃないよと感じる

それらの総称をノイズ。

このノイズから、「情報」というのは生まれてきます。

だから、ノイズが発生しやすいように、色んな所に出かけて、自分とは違う考え方の違う人と会う、というのが大事になります。


ノイズ=ひっかかりについて考えていくと、保育の中で

ワンワードにひっかかる人が最近いるのかな、と感じます。

たとえば、

学び、主体性、〇〇力

右端の言葉は、ちょっとニュアンスが違いますが、それ以外の言葉は昨今の保育の質を考えていく際、あるいは保育を転換させていこうとする際に、多様されている言葉でもあります。

そして、「こだわり」と同じく、いやむしろもっと多様に解釈されてしまう可能性があります。

彼らのひっかかりは、何だろうと考えていくと、言葉の持つ多義性かもしれません。

例えば、「対話」という言葉。これは明確な定義があいまいで、何でもかんでも「対話」と当てはめる向きがあります。

しかし、組織論の視点から対話とは、「異質なものとの調整」と定義されたり、学習論では「アンラーニング」も広義の対話に入ります。つまり、自分の枠組みを、もう一度組みなおし、再構成していくことです。

学びという言葉もそうで、学びは、此度の教育要領の改訂において、小学校以上の学校との連携を図るための共通語として、今まで幼児は「発達」「育ち」と様々な言葉で使用していた言葉を、「学び」として使用されるようになりました。

しかし、「学び」という言葉から連想されるように、学びは小学校以上の「学習」をいう意味合いを想起させます。あるいは、「学び」というワードからアレルギーを起こし、文字学習させるのか?という言葉が出てきたり、そんなに高尚なことはしていません、という人もいるほどです。

文脈から「学び」という言葉を理解せずに、「学び」あるいは「対話」という言葉のみから連想してしまうがために、多様に解釈されてしまうのです。

多義的に解釈されてしまう言葉を理解する際に、大事な事は逆説的ですが、文脈を知る事。


みんなで対話しましょう、と言うとき。「対話」という言葉に反論してしまうのではなく、おそらく彼/彼女は、腹を割って話そうよ、という趣旨かもしれませんし、時間をたっぷりとって話そうよ、と言っているのかもしれません。

〇〇力もそうですね。反論する人は、個々の主体と能力が別個に切り離されているとか、能力主義に陥っているという意見が見られるのですが、使っている側としては全くそんな事は考えていない可能性もあります。特に、現場は。

じゃあ、コミュニケーション力ではなく、コミュニケーションと言えばいいのか?という、身も蓋もない揚げ足取り合戦になりかねません。

というより、言葉の使い方に、賛成反対みたいな意味のないことをするより、もっと違う事に時間を使った方がいいだろうと、個人的には思ったりします。

とはいえ、自身が使う時には、多義的に解釈される言葉はなるべく避けたり、文脈をしっかり話したうえで使用する方がよさそう。


以上。今日のまとめ

多義的な言葉を理解する際は、ワンワードで解釈するのではなく、なるべくセンテンスもしくはナラティブで理解することに努めたほうが良い

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