子どもの行動を表現として捉える自分と、自分の限界値と。

全体的に6月は、沈み込みの時期になる。園生活または新しい生活になれ、今まで抑制してきたものを解放してみたくなったり、安心とともにいつもの自分を発揮してみたり。

いつもいつも子どもは、大人の側から見てポジティブな反応や表現をするとも限らない。自分を発揮するとは、こちらが思わぬ事をする、ということもあるだろう。

生活自体も、いつもできていることができなくなったり、しかしそれは子どもの側から見たら、しごく当然のことで、ちょっと真面目にすることに飽き飽きしてしまう、というか。

おれ、いつも真面目に支度しているけど、たまには俺のこと見てくれよ、というサインということもある。しかし、子どもと同じでこの時期疲れも溜まるのは大人も同様。

そういったサインを出すのが、一人ならいざしらず、やはりそういうサインを出すのは決まって、だいたい皆同じ。一人が、集まりに来ないと連鎖的に来なくなったり、色々な形で、同時多発で、嬉しいことに多様なサインを出してくれるのだ。

なので、本心は、彼らのサインに一人一人じっくりと向き合いたいし、なんなら園庭にずっと寄り添ってあげたい。しかし、状況がそうはさせない。

身体はここにいても、心はここにいない、
という状況が続き、当然、それは子どもに見透かされる。

そして、決まって最後は、大人側の気持ちが溢れかえり、感情的になってしまう、ということもある。保育者として未熟であるが故、と言葉では言いつつも、これが私の限界値なんだろう。

申し訳ないとはおもいつつも、そして保育者としては反省しつつ、でもしかし、翻って考えてみると、仕方がないとも思うしかない。いや、そう思うしかない。

自分の限界値というものがあるからだ。

開き直っているわけではない。


そうやって、真摯に向き合えない状況を理解しつつ、自身の限界を理解しつつ、僕にできることはどう省察するか、であると感じるからだ。

その場では、どうしようもなくとも、時や場所を変えて、後に振り返ったときにどう彼らの行動を見るか。

津守真は、「朝、子どもと付き合い始めたときには、何かわからなかったことが、1日を終えてみると、はっきり見えてくる」ことがあると言っている。

僕は、まだわからない。1日終えてもわからない。

でも、その感覚はなんとなくわかる。

4月にまだ分からなかった彼らの行動が、時を経ていくと分かるということは。

かれらが発するサインが全て子どもたちの表現だとすると。いや、そうなのだろう。しかし、まだ自分の中で、そう思えない自分もいる。

ーこれは、わがままなのではないか
ーこの行動は、気まぐれだろう

と。

しかし、時を経ていくうちに、彼らのサインとしての行動の意味が分かり、雪解けしていくことがきっとある。


子どもの行動を表現として、捉える。

よし、今日も子どもたちがくる。どんな1日に
なるだろう。


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