「問い」を考える

職員会議が、「お通夜」になってしまうのは、よくある話である。10年前以上に大学院に通い、「組織」についての論文を集めていた。例えば、会議研究というのも豊富に研究されていて、小学校の職員会議の分析というものがあった。

いわゆる「お通夜」になっている会議を分析すると、上司や先輩からの指示・命令が多く、新人や若手からは報告のみになっているようだ。加えて、発言は特定の人に偏り、会議中に一度も発言しないなどの傾向もあるようだ。

以前の私の園では、典型的なダメな会議をやっており、当時新人だった私は、発言する機会そのものがないし、あったとしても当たり障りのない言葉を慎重に選ぶしかない心境だった。下手な発言をして怒られるのを避けるためである。

今は、「対話」が重要なワードである。対話については、ここでも結構書いたので、割愛するが、対話は放っておいても生み出されるものではない。

中原淳さんの著書は、もう研究と言えるほど読み漁り、考察しているが、中でも対話を活性化させるキーポイントの一つは、「問い」である。その人の感情や思考を掻き立てるドライビングクエッションである。

最近は、自分で研究会を行う事も増えているので、どうしたら参加者の対話が生まれるのか、そればかり考えている。

例えば、今日は運動会を取り上げるオンライン研究会があるのだが、いくつか問いを考えた。


理想的な運動会とは何か?

うーん、抽象的すぎるか。抽象度が高いと、当然「自分ごと」として捉えられなくなる。


組体操を「子ども主体」の運動会にイノベーションするには?

うーん、具体的すぎるか。日常的すぎると、そもそもの枠から抜け出せない可能性もある。


そもそも、このテーマを何故選択し、どういう方向性で考えてもらいたいのだろう・・・

・えー、運動会という既存の枠組みの行事は、練習、強制、主体無視という、子どもにとってが抜け落ちすぎている。

・ここ数年、行事改革を行なってきて感じるのは、ある程度のコード進行は必要。ただ、「保護者に見せる」という要素は、「成果」を助長し、プロセスをねじ曲げてしまう可能性もある。

・だから、運動会の枠に捉われないコード進行を見つけたい。ちなみに、運動会の枠というのは、運動するという事と、練習して成果を親に見せるということと。

・でも、そもそも論に近くなると、運動会は限界がある、運動会はなくてもいい、という極論にもなり得る。

・そうすると、僕は改革時期からプロセスを重要視してきた。子どもたちが相談し、挑戦し、仲間との遊びが楽しくなる。10月の時期って、仲間の刺激を大いに受ける時期。そんな中、仲間とどう対話しながら遊んでいったのか、仲間の刺激を受けながら自己を発揮していくのか・・・


そうだな

例えば「成果」だけではなく、「過程」が充実する運動会とは?とかなんかはどうだろうかな。


問いを考えるとは、自分の思考を整理する事なのかもしれない。わかんないけど。


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