「存在感」は、水面から顔を出すかの如く

Yちゃんという女の子がいる。とてもゆっくりと話し、部屋がざわついている時には、大人が耳を傾けて、さらに彼女に近づかないと言葉が消えてしまうほど、小さな声でしゃべる。

ゆっくり話すので、こちらがバタバタしている時には、ちょっと早く話してくれ、と思う事もあるにはある。


周りの様子をじーっと見つつ、みんながしている遊びを見入る時もある。

心が動くと、興味のあるものに近づいて、やってみることもある。

よく、というほどでもないが、一緒にいる友だちも数人いる。いつも一緒というわけでもない。

自分から積極的に働きかけるタイプでもない。でも、芯はしっかりしており、こちらが遊びに誘っても違うと思うと断る強さがある。

そんなYちゃんが、ある朝、鬼滅の刃の塗り絵の一ページをもってきた。Kちゃんにあげるためのようで、Kちゃんが登園すると無言ですっと渡す。

幼稚園にそれはなあ、とは思いつつも、ちょっと様子を見守る。

鬼滅の刃といっても知っている子は知っているし、知らない子は知らない。でも、Kちゃんがよく知っているということを、Tちゃんはいつの間にか知っていた。

おそらく、ここでYなりに、Kと繋がりを持つための鬼滅の刃だったことが分かる。Kもそれを察してか、今友だちとしていた遊びの手を止め、「じゃあ、今塗ってみよう」と色鉛筆を手にする。

Kは、なんというかちょっと付き合ってあげようという気持ちもあったと思う。煉獄さんの色はこれだよね、ここはこの色だよね、と二人でやりとりしている時のYの顔が、とても幸せそうだったのが印象的だ。

津守真は「保育者の地平」の中で、子どもの中に育てるものの1つとして「存在感」を挙げる。

うーん、まだよくわかっていないかもしれないが、失礼ながら僕なりに「存在感」を解釈すると、水面から顔を出すこと。

安心できて穏やかなな水中から、未知な空間に出発し、新たな地平を開拓していく。そのためには、水中から出てくることが必要。そして、未知であった場所を開拓し、安心できる場を広げていく。そこに大きな成長があると思っている。

僕は、相手と繋がるために、自分なりに考えて塗り絵を持ってきたYの行為は、まさに「存在」を自分で作っていく行為ではないかと思うわけである。

穏やかに、そしてゆっくりと話し、存在が儚げであったYは、そこから確かに存在するひとになったように感じられる。

ひとつひとつの行為の意味が分かると、保育はオモシロイ。

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