スパルタ指導は根が深い闇。

この前、バレーボールの益子さんと大山加奈さんの対談の記事を見た。感銘を受けた。

それは、中高生時代のスパルタ特訓が、バレーを辞めた現在も自分の健康を脅かす後遺症に悩まされているというものだ。

僕の高校時代も、部活の顧問に殴られるということは日常で、顧問の機嫌を損ねると鉄拳が飛んできていた。特に、うちは野球が強く、全員並ばされて、ビンタを喰らっていた姿を見たときは、心底野球部じゃなくて良かったと思った。

そんな指導方法を昭和時代の悪しき風習だけではなく、平成はもちろん令和にも蔓延っている。

大山加奈さんは、小学生から日本一を目指していた。小学生、中学生時代に日本一になったのかな。日本一になったことはうれしかったが、当然そこに至る道は険しく、特に指導の厳しさから、小学生のうちから「勝つこと」が本当にそんなに大事なことなのか、と指摘している。

こう言った頂点を極めた人から、日本のスポーツ指導に対する警鐘を鳴らしてもらうことは稀であり、貴重である。

「勝つ」とか「一位」になる、ということがあまりにも蔓すぎていないだろうか。何かにつけて、コンクールや競争で、順位を競う。

いや、競うこと自体は悪くはない。小学校のリレーや徒競走はむしろ好きだった。

でも。強く言いたいことがある。

勝つタメに、一位になるタメに、努力したプロセスは誰も褒めてくれなかった。

誰も見てくれていなかった。

小学生、いや中高生でさえも、大事なことって本当に順位をつけることなのか。


どこかで、誰かが、その過程の努力や試行錯誤を見てくれていて、評価をしてくれていればもう少しその子の人生は変わるのではないか。そんなことをふと思う。

保育の話を少し触れてみよう。月末に運動会をテーマにオンラインで研究会を行う予定である。そこで、話題に挙げようと思っていることは、運動会でなんでリレーが必ずあるのか。

さらに、なんで全員が走らなければならないのか。もちろん、幼児なので、勝負にそこまでこだわっていない。し、スパルタ的な指導が行われているわけではないだろう。

ただ、全国大会に向けた熱血指導という悪しき日本の風習よろしく、頑張れば道は拓けるとか、いやでも頑張る、みたいな退廃的な思考の産物のようにも思える。

そもそも、子どもたちを指導している人は、そのスポーツを経験したことがあるというだけで、指導においては素人がほとんどではないのか。教育者が担うべきと言っているわけではない。

今日の練習メニューを一人一人、もしくはチームに合わせて練っていますか?

もしくは、子どもたちの意欲を高めさせる工夫をしていますか?

子どもたちができないと、すぐに怒鳴るだけでしょう。

最悪なことに、手をあげるだけでしょう。

それはね、指導とは言わない。自分がしてほしいことが、相手ができないイライラをぶつけているだけ。それは、ただの自己満足。


なんかうまく言えないが、幼児期の運動会も、その延長上のような気もする。

根性、努力、練習。

もう、そんな行事やめしょう。

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