苦情だと思っていたら、実は自分たちに落ち度があった、という内省

2020-02-12 22:33:10

テーマ:保育・教育
中原淳さんの本が好きである。

ものすごく読みやすい。その中の一節で、「学びほぐし」という言葉が登場する。
再度自分の枠組みや考え方を見直していくということである。

この前も書いたと思うが、それには痛みが伴う。

人は、「変化」を嫌う生き物である。

朝起きてからのルーティーンがあり、それを阻害されるとやっぱり嫌なものである。
人にもよるかもしれないが、僕も「変化」は好きな方ではないかもしれない。

組織の文化が変わるというのは、今までの仕事の仕方も変わっていくことを指す。
今までは、こうやったらこう、という効率的なフレームを経験と共に導き出し、
効果的なワークフローを構成することができていた。

何らかが変化がすると、フレームもワークフローも変化させる必要がある。
もう一度、効果的で効率的な方法を作り直さないといけない。

面倒臭い作業である。

だから、「変化」は嫌われる。

ここで言う痛みとは、時間と労力を指し示す。

保育現場にはそこで働く保育者、そして子ども、保護者がいる。

私の知り合いの園では、ゴリゴリの一斉保育から、遊びが中心の保育に転換した。
その時の保護者からの反発は凄いものがあったようだ。

毎晩、電話が鳴り止まない
抗議の電話が市役所、教育委員会にもいく
家まで来られる・・・

そこまで反発があり、よく気持ちが崩壊しなかったなと、当然ながら
尊敬に値する。

自分の脆いハートなら、即崩壊していることだろう。

そう、保育における、とりわけ保育組織における「学びほぐし」とは
保護者が大いに関わり、痛みとは「保護者の声」も含まれる。

幸いなことに、うちの園では昨今の改革で保護者の不満というのはあまり
なかった。

もともと遊びを主目的にしていた園でもあるし、行事や活動、課外活動を
軸に据えてやっている園でもない、というのも理由かもしれない。

しかし、毎年各学年で行われている行事はあったし、年長は各月でほとんど
活動(行事)が入っており、それを楽しみにしている保護者もいた。
兄弟関係で入園している子は、当然のことながら「次はこれをするよ」という
のが家庭でよく聞かれる言葉だったそうな。

もしかしたら、言葉には出さないが、う〜んと思っている保護者もいるだろう。
そんな矢先、ある方から長文の直筆メッセージが届く。

内容は書けないが、様々な変化へのご意見である。

これはご自分のご都合かなと思われる文面もあったことは否めないが、言いたいことは、『この園の方向性は何処へ??』であるように感じた次第である。

色々なことが変化していくのは、子どもが変わればまたは時代が変われば必然である。一方で、保護者にとっては「変わらない」ということが大事であるという一定数の人でいることもわかる。


コンビニが24時間営業を取りやめるとなると、一定数批判的な意見を言う人は絶対にいるだろう。でも、働き方を考え、社会全体の枠組みを見直していくという流れの中では、消費者である我々も、ある程度の理解とアクションの変更は絶対に不可欠である。

お客様は神様である、という時代は、もはや過去の遺物である。

話が少し逸れたが、変わることによって僕らは一体どこにいくのか、という
内容の発信が殊更に求めらる。至極当然のことである。

何で、これをやめるのか
どういう理由でこれを新たにするのか

また、何を育てたいのか、どんな子どもになって欲しいのか
という根源的な問いである。

当たり前で、目新しさのカケラもない。
が、本当にそれを分かって、職員間で話し合い、発信しているだろうか。

やっぱり、「わかりやすい」物に流されてしまうのである。

この行事あまり意味がないからやめてしまおう とか
まずパッと目を引く築山を改修して、園児募集につなげよう、とか

熟考することなく、目先の方法や利益、損得で動くと
後付けでとってつけたような「理由」は論破される。

何をしたいのか

前年踏襲ではなく、自分たちが何をしたいのか

簡単なようで、実は難しい問いである。
私も含めて、人は簡単な方に、答えやすい方に
楽な方に、流れていってしまう。

保護者は、園のサービスの担い手である。
時に、我々の「落ち度」を写してくれる鏡でもある。

そんなことを内省しながら書いているうちに、改善すべきは僕らであるということがふつふつと湧いてきた

今日のオチは、内省ってやっぱり大事であるということである。

いじょう。

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