ズレのまま保ち続けることもまた学びー発達162を読んでー

発達162号ではピーターモスの講演は、レッジョインスパイアーのスウェーデンの事例などが載り、読み進めるのは難解だ。

海外の事例や展開は、その文化や文脈が分からないと、どうしても短絡的に自分の、日本の文化に当てはめて考えてしまうからだ。

モスがいうところの、政治的、とかね。日本文化から見ると、政治ってあまり良い文脈で語られることはないし、ましてや保育と政治ってあまり結びつかない。

そんなことを思いつつ、モスは考えることを投げかける。

子どもにとって良い施設とは?
子どもにとって・・・

根っこをあらためて問い直すことは、これから不可欠である。

が、それは多くの人にとっては難解でもある。

何かを大きく変える時には、抽象的な、理論的なパラダイムが必要。

でも、どうしても、考えやすい方に流されてします。いぜん、ここにも書いたように、そもそも論は眠くなってしまう。もしくは、反対に怒り始める。

極端だなー。

レッジョを語る際に、民主主義という言葉が頻繁に登場する。レッジョが生まれた背景は、戦中にドイツのファシズムから対抗するために生まれた精神があったり、その国、その町の文脈があり、民主主義という精神が大事にされる。

民主主義ということからかんがえていくと、今うちも、みんなで考えようという流れになってきている。

それは、とても大事なことだし、トップダウンではない風潮は歓迎すべきことでもある。

ただ、僕は、絶対に間違えてはいけないのは、なんでもかんでも皆んなで決めればいいということではない、ということ。

組織の方向性や理念というものは、当然、組織の長たるリーダー自身の考え方が反映される。一見すると、各々の主体性を尊重するティール組織に通じるところもあるように思う。

が、それも大きく異なる。聞くだけ聞いて、意見が通らない、そもそも職員一人に決定権や権利、ある程度の力が分散されていないと、自分の考えや意見で組織が変わっていくという実感が持てない。

役職や立場を超えて、フラットな立場で話し合い、各々の意見が反映される仕組みがあって、初めて民主主義という形態が生きてくる。

違いは間違いではなく、ズレを面白がる先に学びが見出せる

最近の研究会で、発信しているテーマでもある。

しかし、いくらいっても、溝はうまらない。ズレはズレのままでもある。ズレている最中は、苦しく、辛くもある。

なんとかしようと思わず、諦めずに細く長く、意識を保ち続けていくこともまた、学びの一つなのだろう。

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