行きつ戻りつしながら彼の世界にひたるー発達160より

理解できない子どもの姿に出会った時、おそらく人は3つのタイプに分かれる。

一つは、原因を子どもの側に帰属させる。この子困った子だよなー、とか。

二つ目は、答えを保留し、その子の内面世界に寄り添おうとする

みっつめは・・・思い浮かばない。

現場ではよくあるようなきがするなあ。

僕はざんねんながら、良い保育者ではないので、1の方に行きがちだ。だから必死に、僕の頭の上にいるもう一人の自分が、

ちょっと待て、おさえろ

もう少し、寄り添ってみろ

というもう一人の自分の声を聞きつつ、なんだか自分の感情とひっしに向き合いつつ、子どもたちの姿に寄り添おうとする。

Mくんという子がいる。4月は集合になると、そーっと外にいきはじめ、帰ってこない。

それが毎日続く。

当然、集合ということは分かっている。


一人の自分が、この子はなんだろう、もしかしたら切り替え云々カンヌンと、ちょっとラベリングしようとする

でも、もう一人のじぶんが、彼は自分のことが見て欲しい思いを、「来ない」という行為で表現しているのかもしれないよ、と囁く。

僕の主体である僕は、その双方の言葉に揺れながら、彼の世界に寄り添ってみる。

迎えにいったり、
迎えにいったついでに遊んでみたり、
一緒に来られた時には、抱きしめる。ありがとうって。

ありがとうって何なのかよく分からないけど、俺はお前のこと見てるよって。思ってるよって。

そうすると、彼が変わっていく。だんだん、一人で帰ってくるようになる。

そして、ぽつりぽつりと「これがしてみたい」「こうしたい」と心の声が聞こえるようになる。


ちょっと、ちょっぴりだが、彼の世界が垣間見えた気がした。

そんな時、ああ保育者していて良かった、と思う。何気ないことかもしれないが。

津守先生は、(豆先生)「理解できないゆえに否定するのではなく、むしろ理解できないことの中にかくされた、意味がある」と。

この言葉をきいたときに、そんな事を思った。

でも、僕なりに追記すると、理解できないことに、意味を見出す行為は、簡単ではない。

と思う。僕だけかもしれないが。

どうしても、保育者は人であり、子どもの世界に寄り添いたいが、そうできない時もある。

ただ、行きつ戻りつしながら、彼らの世界を断定せずに、寄り添おうと思うこと。

それが大事なのではないかなーと思う。

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