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「何が学べた?」「何が学べそう?」

 学校は「学ぶ」ために通うところ。

 これは多くの人が納得するところでしょう。
 「じゃあ何を学ぶの?」ということですが、きちんと決まっているようで決まっていないような・・・というところ。
 基本的には決まっています。きちんと学習指導要領に沿って、教科書、学校の方針のもと教育活動が行われます。

「なーんだ。教えることが決まっているんだったら、じゃあ誰が先生をやっても同じよね?」

とはいかないところが、教師という職業の難しいところでもあり、楽しいところでもあります。
 先ほども書いた「決まっているような、決まっていないような」と書いたのは、現場にいると「先生によって結構言っていることが違う」からです。

 「宿題は必ず毎日出しなさい。粘り強く、習慣をつけることが大事です。」

という人もいれば、
 
 「人間だから忘れることもあるよね。次からは気をつけよう。」

という人もいます。
 
 学力以外の面で指導を捉えたときに、非認知能力やらモラルやら、結構先生によって基準がバラバラなことが多いように思います。教科の内容においてはそんなことはないのに、です。

 それに関わって、小学校で大きな部分を占めるのが「生活指導・生徒指導」と言われるものです。特に生徒指導。「授業と生徒指導は学級指導の両輪である」と言われるくらい、生徒指導も大切な要素です。これも、基準は人によって結構バラバラです。いきなり一喝する人もいれば、しっかり子どもの話を聞く人もいる。
 人が関わり合う仕事なのである程度は仕方ないのですが、これでは子どもが困ってしまうことも多々あるでしょう。「揃える、揃えない」に関しては議論されるところはあるとは思いますが。

「学校で行われるすべてのことに、学びの価値がある」という視点

 以前にも書いたことですが、私が学級で子どもたちにしつこいくらい繰り返し確認すること。それは、「学校に通う目的」です。私は子どもにも分かりやすいように、

1、勉強をするために通う
2、人との関わり方を学ぶために通う

と言っています。子どもたちの実態によっては少し変えたりはしますが、大方こんな感じです。
 これを大きく括るとすると「『学ぶ』ために通うのが学校である」ということかなと思っています。
 ただ、いくらこれを繰り返し子どもに伝えたところで、この言葉だけでは腹に落ちることは多くありません。なので私は、この「学ぶ」について、子ども自身が実感をもって「あぁ、これも学ぶってことか。」と気付けるような声かけをすることを意識しています。

学校で行うことは全て、「学び」につなげられる

 ほとんどの子は、本当に何気なく、あまり目的もなく学校に通っているでしょう。逆に、毎日「自分は今日はこれを学びに行くぞ!」とか思っている意識高い系の小学生がいたら驚きです。かく言う私も小学校、中学校時代は目的もなく通っていましたから、あまり大きなことは言えませんが。
 ただ、これではもったいないなと思うわけです。なので、上に書いた「学校に通う目的」を子どもたちに話す際に、もっと具体的なところまで掘り下げることをしています。
 どういうことを話すかというと、

「学校で行われることは全て、「学び」に繋がるんだよ。」

ということです。これを言うと、ほとんどの場合、「えー!うそだ!」と子どもたちは反論してきます。そこで、一緒に子どもたちと考えていくのです。

「うそじゃないよ。じゃあ、国語の時間は何を学ぶの?」→子「漢字とか作文とか、音読とか、言葉のこと。」
「じゃあ、算数は?」→子「計算とか、図形とかかな。考えを説明したりもする。」
「じゃあ、道徳は?」→子「みんなの考えを聞いたり、どうするのがいいのか考えたりする。」
「学活は?」→子「話し合いの仕方とか、みんなにわかりやすく話すとか。」

 教科のことを聞いているうちは、「当たり前じゃん。」という感じで子どもたちはバンバン答えます。
 教科においては「これを学ぶ」というのがはっきりしていており、子どもたちにとって分かりやすいからです。そこで、

「じゃあ、休憩時間は?」と聞くと、途端に「・・・?」となります。

 なぜなら、「休憩時間に何を学ぶのかを、考えたことがないから」です。

 子どもにとっての休憩時間は「ただの遊ぶ時間」ですから、その遊びの時間を「学ぶ視点」で考えたことがないのです。

 沈黙が続いた後、何人かの子が手を挙げます。

「たぶん・・・、人との関わり方を学ぶため?」

 多くの子が考えていなかった答えを聞いて、みんな考え始めます。「そうかもしれない。」

 そこで、

「どうしてそう思うの?」

と聞き返します。すると、

「だって、楽しく遊ぶって言っても、喧嘩したりすることもあるし、楽しく遊ぶためにはルールを作らないといけないし・・・、だから、関わり方が上手にならないとうまく遊べないもん。」

 こちらが「休憩時間を学びの視点」として投げかけることで、子どもたちは考え始めます。一人が話せればこちらのもの。

「そうだね。すごいことに気づいたね。他に、休憩時間ではどんなことが学べそう?」

と切り返し、子どもたちと一緒に「休憩時間にはどんなことが学べるか」を考え、共通理解を図っていけばよいのです。
 これと同様に、「給食の時間」や「掃除時間」、もっと細かく「席替えをする意味」について考えてみてもよいでしょう。
 子どもたちはちゃんとそれぞれの活動に「学びの視点」を入れ込むことができます。

 このように、「学校での活動の一つひとつに、きちんと目的がある。そしてそれを意識することで、いくらでも学ぶことができる、よりよい自分を作ることができる。」ということを根付かせていく、価値づけていくことが大切なのかなと考えています。
 また、教師自身がこのようなことを常に考えることで、「今子どもがこの活動をしているのは何のためなのか?」を考えることができ、必要なものは納得感をもってとことんやり、必要のないものは削ってシンプルにすることができるというメリットもあります。

「児童間のトラブル」を、教師としてどう捉えるか

 教員をしていると、「児童間のトラブル」に対応しなければならない場面が多々あります。低学年くらいだと、特に4、5月は多く、休憩時間が終わるたびに「先生〜、○○くんと□□くんが喧嘩してるよ〜。」という報告が他の児童から上がります。
 そこでまあ一通り事実確認をして、互いの言い分を聞き、これからどうするかを考え、謝罪などの流れで対応するのですが、私としてはここで小さな投資をするというのが大切(トラブルからも学ばせたい。それが後々のためになるという意味で)かなと思って、ほとんど必ずと言っていいほど次の2つのことを確認します。

①「今からする話は、お互いの人間関係をよくするためにすること。」という前提の確認

 まず、「今からする話し合いは、お互いの人間関係をよりよくするためにすることだよ。先生が叱るためにするんじゃないからね。だから、お互いを理解しようと言う気持ちで、素直に話をしようね。」と伝えます。
 お互いに謝って「ハイ、終わり」にするのは、とてももったいないことです。どうせ起きてしまったトラブルですから、教師としては「これはチャーンス」と思ったほうがよいと思います。
 そのためにも、話し合い自体が「人間関係を学ぶ場である」という前提を最初に提示することは、話をスムーズに進めるために非常に意味があることだと思います。

②「納得してないことはある?」

 大人が間に入るわけですから、子どもが言いにくいことや、納得してないけど終わらせたいという子どもの気持ちが入ることがあります。ここでも、「話し合いの目的が相互理解を目指す」なので、互いが納得せずに終わらせるのはもったいないです。もしどちらかが納得できていないのに終わってしまったら、次にまた同じようなことは必ず起こりますし、保護者からクレームが来るなんてこともあり得ます。子どもの表情をしっかりと見て、納得しているかどうか、前向きに追われているかどうかを確認する必要があると思います。

③「今回のトラブルから学べたことは何?」

 最後に、「今回のトラブルで何を学べた?」と聞きます。すると、子どもなりに考えて言葉を発するでしょう。

「ぼくがからかうような言葉を言ったから相手を怒らせちゃったから、言い方に気を付けるようにがんばる。」
「ついカッとなっちゃったから、次からは深呼吸をして落ち着いてから伝えるといいと思った。」

など、今回のトラブルから何を抽出すれば次に活かせるか、つまり「今回のトラブルで学んだこと」を言葉にすることで、「トラブルにはなったけど、人との関わりについて一つ学べてよかった。次からはうまくいきそうだ。」という、前向きな気持ちをもたせて終わることが大切だと考えています。

今回は一部のみしか書きませんでしたが、「学校で行われるすべてのことに学びの価値がある」と考え、伝えていくことは、子どもにとっても教師にとっても、大切な一面なのではないかと考えているので、このようなことを書いてみました。

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