「学部長の教科書」を書くための準備
noteを再開しようと思います。ミドルマネジャーから見た「大学の現状や課題」などについて書いていこうと思います。考えがまとまったら、「学部長の教科書・強化書」になるかもしれないですね。
とはいえ、大学教育に関する議論は、どれ一つとってもややこしく、簡潔にまとめることがとても難しい問題です。しかも僕は高等教育論の専門家でもなんでもなく、2つの大学で学部長を合計8年間やっただけの「実践家」にすぎません。
ただ、その間に他の先生たちを説得し、学部を組織化し、教育改革をまとめる経験を続けてくる中で生み出してきた自分なりの「持論・自論」がいろいろ溜まっています。
そこで、これまでの経験をふりかえりながら、自分なりの自論を整理し、新たな知見を生み出したいと思っています。現場でもがく大学のミドルマネジャーにとって、参考になることが少しでもあればいいなと思います。
まずは、大学をめぐる様々な論点について、僕なりに考えたことを順不同で書き出していくことにします。しばらくは、メモや備忘録的なものになるとは思いますので、分かりづらいこともあるかもしれません。
なぜ大学は今のようになったのか?
さて、最初に、「大学の数は多いのか」という問題を扱ってみましょう。
大学関係者の間でも、最も意見が分かれる論点の代表例といえば、「日本の大学は多すぎるのではないか」ということではないでしょうか。
あと、「昔の大学は良かった」というのもあります。「昔だったら、こんなことはせずにすんだのに」とぼやいたり、「だから、今の大学はおかしい」とか「改革なんてやる必要なんてないんだ」と言い放つ先生方は少なからずいると思います。
しかし、ミドルマネジャーはそういう先生たちを説得することが仕事です。
どのように説明すれば、「今の大学は教育改革が必要だ」ということを理解してもらえ、そして「改革を進めないと大学は潰れるんだ」ということに納得してもらえるでしょうか?
まずは、基礎的なデータを押さえましょう。2020年現在、日本の大学は795校あります。一方短大は323校あります。現在、18歳人口のうち、54.1%が大学に進学しています。短大は4.4%です。(データは特に断りがなければ文科省が作成した最新の「学校基本調査」をもとにしています)
ただし、昔から大学のほうが多かったわけではありません。今から40年前の1980年には、大学が446校に対して、短大は517校ありました。大学と短大の数が逆転するのは1998年からです。
大学と短大の数をグラフでみてみましょう。実は1953年から1997年まで、大学よりも短大のほうが数は多かったのです。
進学率で見ると、短大は数の割にそれほど多くの人が進学していないことがわかります。1つ1つの規模が小さい短大が多いことが想像できます。
このグラフを見ると、日本ではこれまで、次のような変遷を経て大学進学率が上昇してきたことが読み取れます。
第1期進学率上昇期…1960年代〜1970年代半ば
この時期は今と同じくらいのスピードで進学率が上昇しました。1962年に進学率10%をこえたあと、1970年代なかばには20%後半まで上昇しています。
この時期の前半は高度経済成長と重なります。東京オリンピックの時代ですね。しかし、1971年のニクソンショック、1973年のオイルショックで、そうした成長機運は一段落します。日本社会の激動の時代です。
この間、日本の大学も大きく揺れました。その象徴が「学生運動」です。学生運動の論点の一つは「大学批判」でした。ここでは詳細に立ち入りませんが、以前の進学率10%以下の時代の大学生は、間違いなく「エリート」側だったはずです。しかし、進学率が上昇するにつれ、むしろ大学生はエリート側というよりも大衆の側に立ち、大学のエリート意識を非難する側へと変わっていったのです。
停滞期…1970年代半ば〜1990年代前半
学生運動などで混乱した大学を収束するために、当時の文部省は大学に対する規制を強化しました。たとえば、学生運動の「マスプロ教育批判」などを受け、文部省は大学側に入学者を野放図に受け入れないことを要請し、その代わりに、私立大学には補助金を出すことになりました。また、大学数・学部数・学生数などは抑制的政策を取ります。
その結果、大学進学率は緩やかに下降していきます。
実際、大学はこの間にほとんど増えていません。10年間のスパンで見ると、一目瞭然です。1960年代には大学数が急上昇しました。しかし1970年代から1990年代の20年間にわたって、大学増加は非常にゆるやかだったのです。
1951年〜1960年 42校
1961年〜1970年 132校
1971年〜1980年 57校
1981年〜1990年 56校
1991年〜2000年 135校
2001年〜2010年 109校
2011年〜2020年 15校
進学率が下降するということは、大学進学者が減ったということではありません。むしろその逆です。18歳人口は、1992年の205万人というピークに向かって増加し続けます。
多くの受験生にとって、大学は必死で受験勉強して入るところになりました。
経済面でみると、1970年代なかばから1990年代は安定期、そしてバブル経済へと突入していきます。経済状況を反映して、教育(この場合は受験)にかけるお金は増え続けたはずです。それが、予備校ブームであり、受験校の増加に現れます。
大学も空前の好景気に沸きます。地方の小規模私立大学でも受験生が1万人突破!などということも起きた時代です。しかしそれは、バブル経済と文部省による様々な規制が背景にあったわけです。
第2期進学率上昇期…1990年代後半〜現在
一方で、文科省は大学に対する規制緩和を割と早くから手掛け始めました。それは1980年代後半の中曽根政権が立ち上げた「中曽根臨教審」と言われています。ここではその詳細に立ち入ることはしませんが、来たるべき知識基盤社会に向けて、日本の大学は他の先進国(特にアメリカ)の大学のように大きく変化すべき、という議論が行われたようです。
その中では、日本の大学の特異性が問われました。「大学のレジャーランド化」とか「日本の大学は入学するのは難しく、卒業するのは楽勝」とか、「入試でのペーパーテスト偏重」とか、「大学が偏差値で序列化していて、教育の質がほとんど問われていない」とか、「大学教員は研究優先で教育を軽視している」などという諸問題です。
これらはいずれも今でも根深く残っている問題です。当時、これらの諸問題を解消するために、文部省が取った方法が、「大綱化」と呼ばれる一連の規制緩和策でした。大学をもっと増やして競争させ、学部のあり方やカリキュラムも大学の自由にできるようにしたのです。
そこから一転、大学数は増加に転じます。短大を4大化するところも多く、大学は一気に500校、600校、700校と増えていきます。一方で短大は、1996年の598校をピークに減少に転じます。
したがって、大学が増えたのは今に始まったことではありません。中曽根政権の方針として出てきた規制緩和策がその発端なのです。そして、その背景には、硬直化した日本の大学教育を変えたい、という意図があったのです。
ただし問題は、大学の増えるスピードが、当時の大学進学率のスピードを超えてしまったことです。その結果、2000年代に入り、突如として、私立大学に「定員割れ」が生じるようになりました。いきなり多くの大学は、「ほぼ全入状況」になってしまったのです。大学の優先順位は「受験生獲得」に移っていきます。
まとめ
ちょっと、記事が長くなったのでまとめます。
1970年代後半から1990年代は、大学に入るのが難しく、大学に合格することが今とは比較にならないほど嬉しかった時代です。
この時代を懐かしむ大学人は、今でも多くいます。あたかもこの頃の大学が「正常」であったかのように言う人も少なからずいます。
今の大学教員は、この時代に学生時代を過ごしている人が大半のはずです。自分たちが過ごした大学と、今の大学が全く違うことに、納得できないと感じる人も多いことでしょう。
しかし、この時代は、決して「大学が良かった時代」だと僕は思いません。むしろ、大学は経営の自由を奪われていた時代です。その一方で、本来であればやるべき教育改革が進まなかった時代、といってもいいのかもしれません。
そこをこじ開けたのは、中曽根政権が仕掛けた「大綱化」でした。大学が増えたことは、中曽根政権が仕掛けた「規制緩和」や「自由化」の結果だった、と捉えれば、「大学が増えたことが悪い」と考えている人の半分ぐらいは、ちょっと考え方を変えるかもしれませんね。もちろん、あとの半分の人は、そうは思わないでしょうけれど。
ただ、難しいのは、その政策が導入される時期が、やはり日本社会の大変動と重なってしまったことです。
この続きは次回以降です。
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