見出し画像

貝楼へ

諸島のうち一番おおきなその島のことを、島の名とは別に、島民はただ本島<ホントウ>と呼んでいた。
本島に来て、はや数ヶ月。
島の初夏は温暖で、おだやかな風と無音の陽光が海と岩辺と緑と人々を包んでいる。


引越しのきっかけはハローワークに置かれたパンフレット。表紙はありきたりな写真。海、砂浜、空。
わけもなく手に取り、まず思ったのは
「とおくへいきたい」
それだけ。

この一年の暮らしといえば、無職でぶらぶら、たまに個別指導塾でバイトをして、転がり込んだ女の家で2人分のメシを作る日々。
自分には十分すぎる、ありがたい巡り合わせ。
そのまま老いていければいい、もしくは、不意に消えていければいい、そう思っていたはずなのだけれど、どうしようもなく、とおくへいきたい。
ずっと、昔からとおくにいきたかった。
けれども、"とおく"なんていうのは、ばからしい。どこに行ったところで、"ここ"にしかいられない。慣れた暮らしは肉の重さをともなって、全身を抑えつける。運良く、自分を好いてくれる人間もいる。それでよかった。そう思っていた。
だけれども、所詮ごまかしは気休めで、日々の隙間、ふとした拍子に投げ出したくなることもあるのだろう。

自分にとっては、貝楼諸島のパンフレットが触媒だった。
持ち帰って中身を読むに、しばらくのんびり暮らすのにちょうどよさそうに思えた。観光地でもないうえ、都市部からの移住者には補助金も出るらしい。
自治体の移住課に電話をするとすんなり話が進み、本島の空き家を手配してくれるとのこと。ヒモ暮らしの身の上でも歓迎だという。
家主のコにはまるで相談せぬままに、なんとなく電話に頷いていたら引っ越す段取りになっていた。私もあのコもよく家を空けてふらふらしているのだけれど、ちょうど彼女が出かけている間に書類も届き、そのまま決まってしまった。

最終確認の電話をしたあと、急に全身がだるくなり、吐き気に呑まれた。
敷布団と掛け布団にはさまり、膝を抱えて黙って目を開ける。
布団にこもってしまえば、俺のみじめさも外に出ていきゃしない。陽光も、新聞配達のエンジン音も、幼稚園児の集団散歩の声も、入ってきやしない。自分の呼気のなまぐさい熱気を布団に満たして丸まり、いつのまにか眠る。ひとりの時はそうするのが常だった。
つかれていた。もうずっと、疲れがとれないでいた。
早朝、しばらく出かけるとの置き手紙を残し、リュックにわずかな着替えと財布とを詰め、本州を離れた。

引越してしまえば、住民との軋轢などへの不安はすべてはずれた。何年も前から移住者がどんどん増え、島民側も移住者側もみな慣れていったらしい。
本島での暮らしはおだやかに過ぎていく。
しずかに海を眺め、たまに飲み屋へ行き、仲良くなった常連の老人と猥談などをして、それで一日が終わる。
唯一、欠如していたのは他人の皮膚のぬくもりと肌触り。よくしてくれた人間にさえ相談もせず島へ来たことに申し訳なさもあった。とはいえ不思議と帰る気にはならなかった。波の音をひがな聞くうちに焦燥感も薄れていったらしい。金がなくなるまで逗留する気でいた。


今日も晴天、波はおだやかで、とりとめもない雑談を飲み屋で老人と交わしている。
映画音楽ならハンス・ジマーがいいだとか、ハイカラ趣味なその老人とは妙に気が合い、あたりの島々の特徴やおすすめの飯屋なども教えてもらっていたのだが、ふと、ここいらに観光名所などはないか尋ねてみた。
んなもんねえよォ、と老人はカラカラ笑い、不意に真顔になり、生きてて楽しいか、などと訊いてくる。
それ、本州でもよくきかれたな。
ありふれたその質問に、ありきたりの言葉を返す。

「わかんないですよお、そんなこと。ずっと。ただ暮らしているだけです。それ以上のことなんて、とても、とても。」

「だろうなあ」と、老人はまた笑顔に戻り、ニヤニヤしている。

「おめさんの気にいるとこ、知っとるよ」
「はあ」
「まあ、まずウチに来いよ」

老人の家は人のいない海沿いにあるらしく、飲み屋の帰路のみちすがら、ある離れ島の話を聴く。
曰く、干潮時にだけ剥き出しになる岩が沖合にあり、ほとんどの人間はただの岩礁と思っているが、古い島民の幾人かだけは、わずかに木舟が通れるだけの洞穴からその内側に入れることを知っているのだという。
たいして魅力もない話だと思ったが、老人はあいかわらずニヤニヤと、きっと気に入ると言ってやまない。
そこまで言うなら、と、結局老人のボロ屋にまでついて行くことにした。

老人の家は砂浜にあった。
いわゆる古い漁師小屋を幾軒かつなげて家としているようで、浜のほうには、家の右手に朽ちかけの木舟の群れと、左手に積み上げられた貝殻とがある。すぐ先の短い堤防には錆びた小型のモーターボートが係留されている。

彼は熱心に、
 いまがちょうど干潮だ、俺が船を出してやるのは今日くらいの日和だけで滅多にないのだ、お前はきっと気にいるし、よかれと思って勧めるだけだ、
と繰り返す。

実際、よかれと思っているのだろう。
彼は多少スケベなことを無視すればまるきり気のいい人間で、移住者にも島民にも別け隔てなく接するものだからみなに好かれていた。私も好ましく思っていたし、善意からの勧めであることは疑わなかった。

けれども、気乗りはしない。
もとより、観光名所など興味はないのだ。雑談のテンプレートに則って尋ねただけで、本心としてはめんどくさい。
仲良くしてもらうのはそりゃ嬉しいのだけど、ちょっと飲み代を奢りすぎたかな、なんて悔いもあった。
しかしまあ、なりゆきに逆らうのもまた、めんどくさい。後で話のタネになるだろうし、好意は素直に受け取ろう。
愛想笑いを浮かべ、申し出を承諾すると、老人はテキパキと船の準備をし始めた。
一番マシな木舟を選び出し、浜に押し出すよう指示などして、二人がかりでコロも用いてなんとか浮かべ、モーターボートのケツにヒモで結わえる。
ランタンや櫂も木舟に積んだ。岩礁のウロは細長く、暗いので必要なのだという。
お祈りやら着替えやら点検やらを終えた老人が手招きをして、モーターボートに乗り込む。
片足を乗せると躯体が揺れる。すこし怖い。
動き出した船先が海面を切り、とおくまで光が跳ねる。
エンジンの振動をケツに受けながら振り向いて、本島がゆっくりと小さくなっていき、堤防のふちのフジツボがかすみ、木々が緑のかたまりとなり、茶色い点の老人の家が砂浜に溶けた。
前を見ると、一面の、海。雲ひとつない空。

しばらく船を走らせたのち、見えてきたのは、とても島とは呼べない、黒い岩礁。
ぽつりと、伏せたお椀のように海面に顔を出している。
舟を寄せる岸もない、民家ほどのおおきさの、岩のかたまり。
老人はモータボートを停め、引き寄せた木舟に移れと言う。
いくら波がないとはいえ、海を跨ぐのは恐ろしい。老人のゴツゴツとした手におさえられた木舟は、私が乗り込んだ後に、モータボートからヒモを解かれた。
目の前にウロがある。
奥は真っ暗で、どれほどの広さがあるのか、狭いのかもわからない。

別れ際、老人が言う。
きっと気にいる。
気に入らなくとも、なんにせよ、しばらくはここにいるから。
すぐ帰ってこい。
言い終えて、無言でこちらを見つめている。
老人はもう、笑っていない。

なんと返せばいいか分からないまま、木舟に揺られていたが、仕方がないので、不慣れな櫂でぱしゃぱしゃと海面を叩き、暗いウロへと舟を進めた。
ウロには意外と奥行きがあり、木舟の両脇を岩壁にぶつけながら進んでいく。
波が出てきたようで、ゆっくりと奥へ運ばれていく。
闇のなか、ランタンの灯りだけが頼りで、心細さを自覚しながら、しばらくいくと、舟底が砂をこすり、停まった。

舟を降りる。
くらい。ひどくなまぐさい。
岩礁の内側はドーム状の空洞で、広場のようになっているらしい。
足元にランタンを置き、懐中電灯を取り出す。
目の前に光を向ける。
きらきらと光を反射する、なにかおおきなものがある。

岩礁の屋根を衝き、輝いているのは、巨大な巻き貝、のようなもの。
懐中電灯の描く軌跡に沿って、巻き貝の表面が蠢いた。
光を浴び、色とりどりの貝殻が閉じたり、ひらいたり、こぼれ落ちたり。
おびただしい貝たちの、寄り集まった集合体、らしい。

巻き貝の輪郭をかたどる螺旋に沿って点在するヤコウガイの仄白い輝きが目に刺さる。
二枚貝の死骸が折り重なり化粧壁めいて外層を飾り、その外壁にカメノテやカニが取り付き、それらの隙間から、内側の、灰色や肌色のなめらかな肉のかたまりが呼吸をしている。
そんな巨大な巻き貝のおばけが、よく見ればそこいらに屹立している。
貝たちの、楼閣群。

しばらく立ちすくみ、わずかに揺れている楼閣たちのひとつを見つめる。
外の、岩礁に打ち付ける波濤の振動が、靴底に響く。
なんとなく、本州にいたころ、チェーンのイタメシ屋で不味いペスカトーレをつつきながら彼女が話していた一節を思い出す。

貝の本質は、貝殻でも軟体でもなく、空洞なんだよ。いずれ腐り落ちた軟体は液となりとろけ出し、不在を残す。貝殻はあくまで、その不在の輪郭をなぞっているに過ぎない。身から染み出す有機質の膜が層を重ねていき、身を守る貝殻はいつしか重荷となり、波に呑まれて錨となり、終の住処を定める。

ぼやけた記憶が浮かび上がり、通り過ぎていく。


私がいつか見失った貝殻。
へばりついた不可視の故郷。
いつか不在になる私。


貝楼へ近づく。
体節を持たないぬめやかな肉がゆっくり脈打ち、ずるりこちらへ身じろぐ。
ぽつぽつと散らばる黒い点、貝たちの目はゆるやかに滑り、私の視線の中心へと収束していく。
私の2つの目と彼らの無数の目。
私のやわらかな肌色の身と、彼らのやわらかな肌色の身。

満ち潮。
膝まで波が寄せ、カニたちの行列が足の甲をまたいでいく。
抱擁するように両手をひろげて近づけば、貝楼もまた、殻をずらして身を晒し這い寄る。
もう明かりも要らない。
両足を前に出すたびに水の重たさを感じる。
反響する波音に包まれ、自分の息遣いだけが邪魔をしている。
老人は正しかった。
私はきっとここを気に入る。
自分の思い違いにも気付いた。
とおくに行きたかったんじゃない。
ねむりたかった、ずっと。
胸元まで来た海水がうねり、口に入る。
しおっからい。涙の味。愛液の味。羊水の味。
海。
手を伸ばす。
やわらかい、肉。


とおく、岸壁に砕けた潮騒が、睦言のように聞こえ、それっきり途絶えた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?