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『グッドナイト・マミー』感想:物語における対立と緊張

2015,オーストリア
『グッドナイト・マミー』(原題:Ich seh, ich seh、英題:Goodnight Mommy)

監督・脚本:ベロニカ・フランツ、セベリン・フィアラ

双子の美少年と母親。
鮮やかなトウモロコシ畑で兄弟が遊ぶ。姿は見えないが草むらが揺れる。
見えないものを人は恐れる。未知への恐怖は疑心と繋がり、疑心は人を攻撃的にする。
オーストリアの自然を背景に、印象的な構図を意図的に多く取り入れつつ構成も丁寧な映画。




※ ネタバレを含みます



低評価のレビューが散見されるものの、物語の構成はよく練られており丁寧な話運びをしている。
ただ、非現実的なショットが頻発するため、作り手の狙い以上に視聴者が混乱しすぎたのが主な低評価の理由と思われる。

エンタメとしてのホラーには鑑賞者をドキドキさせることが求められる。
そのために必要なのは対立する結末の緊張関係だろう。

英題・邦題の「グッドナイト・マミー」は鑑賞前からあるひとつの結末を予期させる。
眠りにつかされる母親、すなわち死、破滅。

「手に汗握る」ような物語とはすなわち、予期される破滅があり、迫る危機からいかに逃げるかの緊張が何度もかつ自然に配置されているものだといえよう。

だから、作り手としては、鑑賞者に破滅を予期させるための前提として主要キャラクターの動機や環境を違和感なく伝えねばならないし、それと対立する状況を幾度の場面転換ごとに配する必要がある。
ホラー映画ではこの対立/緊張が特にわかりやすく描かれる。

あぁきっとエリアスによって母親が殺されてしまうのだろうと言うことが示され、破滅からの回避チャンスが配され、ドキドキできる波として盛り上がりがしっかり配置されている。

前半、顔の見えない母の不穏さによってエリアスの不安に観客がシンクロする。
しかし、母の顔が治った後には観客の共感は逆に母に寄っていく、という構成。
後半は視聴者とエリアスとの距離が離れていく、と前半後半の描き分けが綺麗になされていた。

焦らし方もよかった。
状況が悪化していき、目をそらしたくなるような避けられない破滅へのカウントダウンを見せつけられていく。
途中で募金を求める赤十字の勧誘員が訪れたり、綱引きのような対立の展開が頻発するのも王道でいい。

主要素は3つ。

・親と子供のすれ違い
・映像の綺麗さと不穏さ
・生理的嫌悪感

この3つの要素に各シーンが紐づいており、無駄な要素がほぼない。

虫眼鏡で虫を焼くシーンなど、子供が言うこと為すことには伏線がちゃんと事前に配されている。
夢のシーンがいくつかあるがそこの切り替えもはっきり明示されている(気づきにくいながら)。

ボウガンが印象的に描かれるが、拷問や追跡においてボウガンは全く用いられないのもよかった。適切に予定調和をなぞりつつ、陳腐になりすぎないよう随所に配慮がなされていた。

邦題について先に述べたが、個人的には原題「ich seh, ich seh」が秀逸に思える。

原題の「見える、見える」は、こだまする双子の声でもあり、
「わかった、わかった」という子供の言うことに対する親の無理解な典型的な返答でもあり、
エリアスには見えているルーカスが母からは見えない悲劇も暗示している。

こちらの題のほうが親子間のすれ違いが強調され、鑑賞後感としてしんみりさを引きずりやすく思われる。

おわりに

娯楽映画としてよくできていたし好みでもある。お手本としたい。
けれど、個人的な学びとしては、鑑賞後の生活に視聴者がなにを持ち帰れるか(持ち帰りやすくできているか)がいかに大事か、もあらためて痛感した。

たとえば「親子であれ相互理解には齟齬が生じやすく、悲惨を招く場合がある」という学びを持ち帰る、など、視聴者それぞれが好き勝手になにかを持ち帰ればいいだけではあるけれど。

持ち帰りにおいて鍵となるのは作品における「痛切さ」の描き方だろう。
本作でいえば、エリアス側の苦しみであったり、母親側の哀しみであったり、手を差し伸べない周囲であったり。
どの作品にも言えることだが。

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