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貝と人間の陽気なパーティー

ベッドで目覚めた男は天啓を得た。
── オレはもうなにも食わなくていい。
暴走トラックに撥ねとばされて、生死の境をさまよった彼の身体は変質していた。
もはや昔の彼ではなかった。

どうしてなにも食わなくていいなどと言うのですか?

問われた男はこう返す。
頭のなかでそう言われたから。
彼は悟った。オレはなにも食わなくても生きていけるのだと。
病院食を突き返し、ただ水だけを口にして、それでも彼は死ななかった。妄想で片付けるには奇妙なことに、たしかに彼は水だけで十分生きていけるようだった。

変質したのは身体だけではなかった。
男は他人の為すことすべてに延々ケチをつけはじめた。
メシを食うのを今すぐやめろ! 肉は食うべきではない。なぜなら命は尊く、お前の命ひとつと釣り合う命はひとつぶんだけなのだから。魚も貝も野菜もおなじこと。このスープを見たまえ! シジミの涙が海よりも濃く溶け込んでいる。お前が食っていい米は一粒だけだ!

その偏執はすさまじく、あまりに勢いよく目についた他人を非難するので、人々は彼を気味悪がってすぐに退院させてしまった。
帰路でも彼は止まらない。
通行人すべてを怒鳴りつけ、頭の先から爪先まで非難する。
ヘアリキッドは非人道的な動物実験の産物である!動物の人権を守るため、オレがこの場で剃りあげてやる!絹の衣服はいますぐ破け!先祖代々生まれて死ぬまで糸を紡いで煮殺される蚕の叫びが聞こえないのか!?木綿のズボンは許せない、なんとおぞましい死骸の集合、お前は祖父母の屍肉で作った蝋燭を喜んで灯す人間なのか?
彼の叫びは凄まじく、けれどあまりにつまらなかったので、誰もスマホを向けなかったし、もちろん耳も傾けなかった。
怒り狂った彼は自宅に着いて、建材たちの残酷な末路に涙したけれど、そうはいっても病みあがりだから寝ることにした。もちろん彼は裸になった。非倫理的なプロダクトはすべて拒否するのだ。
けれども彼は眠れない。
目は爛爛と輝いて、脳細胞は激しくシナプスを発火させていた。彼は自身の肉体に憤った。
眠りを欲する者に、なぜ眠りを与えないのか?
一日が過ぎ、眠れない。三日が過ぎ、眠れない。
いくらたっても眠れそうにないものだから、しかたなく彼は立ち上がり、無知蒙昧な人間どもに人道を説いてまわることにした。
手始めにまずは呑み屋から。
人の醜き欲望の化身たるネオン看板を手当たり次第に叩き割りながら夜の街を征く。
煌々と灯る赤提灯を目印に、吊るされた暖簾の苦しみに胸を痛め、繊維植物の鎮魂を必死に祈ってから入店すると、そこでは老若男女の人間たちが酒池肉林の悪魔的宴会に興じていた。
コップには『圧し潰され腐敗に晒された穀物の叫び』ビールがなみなみと注がれ、皿の上には色鮮やかな山の不幸、海の不幸な被害者たちが並んでいる。おお神よ、愚かな人間たちを赦したまえ。
モロキュウ一丁!
酔客たちは、スレンダーで美しかった緑の彼女キュウリが今まさに鋭い刃によって悪趣味に凌辱されるところを楽しげに見つめている。つぶ貝の親子は無惨に煮付けにされていて、子貝はきっと「パパ! 明日はディズニーシーに行こうね!」そう笑った直後、沸騰するみりん醤油に突っ込まれ溺れ死んだに相違ない。
卓上の凄惨さたるや! 彼はあまりのおぞましさに震えてしまった。
全裸でわなわな震える男に気づいた大将が叫ぶ。
テメェ、ふざけてんのか!
男も怒声で応答する。
ふざけているのはお前らだろう! 貝を食うなど断じてならぬ! 大将! 水をくれ!
彼がどうして怒っているのか、そしてなぜ全裸なのか誰もわからず、それでもあまりに彼が平然としているものだからつい大将も水を出してしまって、酔客たちもまた食事へと視線をもどす。

なァにいちゃん、こんな夜更けにどうしたんだい?

経験豊富なトクさんが優しい声色で男に尋ねた。トクさんに任せりゃ大丈夫。大将も酔客も安心している。
はあ……どうにも眠れませんで……。
トクさんの優しいまなざしにほだされて、男もついつい落ち着いて身の上ばなしを語りだす。
オレはなにも食わなくたって生きていけるとアタマのなかで声がした、これこそ人倫に則った生き方だ、だがどうしても眠れないのだ。
トクさんは微笑みながら話を聞いて、こんな提案を切り出した。
なァにいちゃん、よく眠れるって評判の離れ小島があるんだヨ。
そこには邪悪な人間も、邪悪な文明もない。どうだい? 案内してやろうか?
男はすっかり喜んで、邪悪の権化の軽自動車にもすんなり乗って海へとやってきた。
浜はちょうど干潮で、トクさんの小舟で島へと向かう。
たどり着いたは沖の岩礁。その横にポッカリウロがあいている。暗くて狭い洞窟だ。
トクさんはにこやかに男を諭す。
この洞の向こうには、そりゃあ快適な寝床があるんだ。
ここから先は狭いから、わるいが一人で行っておくれね。

満月が射しこむ入り口、岩肌は妙にツルツルとして、きらきら反射する波間の月光を受けまるで神殿のようだった。
壁にはびっしり貝が張りつき、難解なアラベスク文様を描き生命讃歌を象っている。男は舟を降り、うっとりしながら歩みを進める。
突然、ドーンと音がして、ウロがすっかり真っ暗になった。振り返ると、入り口がなぜか閉じている。
男は驚きながらも、なあに、水さえあれば死にゃしない、それに眠れりゃそれでいい、人間たちのことはあとでゆっくり考えよう、そう思い直した。
暗闇に目が慣れる前に、男は異様な音に気が付いた。
ずるずるぺちゃぺちゃ、やわらかい肉が蠢く気配。
塩辛い飛沫がときおり顔に吹きかかる。
ようやく目が慣れ、男はここが宴会場だと理解した。
人間のではない。巨大な貝のバケモノたちの宴会場。
軽トラくらいのサイズのオウムガイが、イノシシくらいの二枚貝を触腕で捕まえバラしている。解体するほどに体液が激しく撒き散らされて、男の顔まで飛んでくる。まわりを囲んでゆらゆら踊り狂ってる巻き貝たちの腹肉は力士みたいに豊満だった。
巻き貝の一匹が子巻き貝を抱きあげてたかいたか〜いとあやし始め、殻ごと潰す。 はみ出た肉をこねくりまわしてヒト型にする。ヒト型の肉はあたりを走ってはしゃぎまわって、別の巻き貝にまた捕まって食われてしまった。
解体された二枚貝の殻にはカニや魚のミンチが詰められ、そのドリンクをオウムガイが周囲に降らせる。貝たちはそれを浴びて陶酔したように天へと触手を伸ばしている。

呆けている男の右足を、シャコガイが挟んだ。
アンボイナガイが左くるぶしに毒針を刺す。天井から巨大なカメノテやイソギンチャクがバラバラと降ってくる。オウムガイの口からホヤが数発飛んでくる。  ホヤは脊索動物だろ! 貝じゃない! 男のツッコミはウロにむなしく反響し、巨大貝たちも男に気付いた。
岩礁にうちつける波濤が EDMのビートを刻む。
夜光貝たちがかすかな光を反射して七色に輝く。
最高のクラブハウスに居るというのに、男の顔は真っ青で、縦ノリなんてできそうになかった。貝でも踊りを知ってるのにね。
貝の陽気なパーティーは、最高潮に達しようとしていた。



トクさんは浜辺でタバコをふかす。
満潮になり、すっかり海面に沈んだ岩礁のあたりを眺める。
そりゃあアンタは眠れんだろうよ。
健康ってのはメシ食ってこそだ。眠るのだって血肉の働き、だのにそんなに文句言ってちゃあ、さぞ生き辛かろうよ。
せめて、ゆっくり眠りなさいな。
黙祷を捧げ十字を切ると、トクさんは軽自動車に乗り込んだ。

日が昇る。
朝メシの時間だ。
二日酔いにはしじみ汁。


写真:高橋祐輔



アンソロジー『阿佐ヶ谷の二階』(2022.05) 寄稿  


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