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神社の経営

4月になり桜咲く季節、近所の諏訪神社は満開の桜が咲いていた。
実は昨年より近所の神社、諏訪神社の監事になった。
近所の神社と言うのも、徳島市南佐古三番町にある諏訪神社(以降諏訪神社はこの諏訪神社とします)だ。
2017年のころだろうか、もう6年前、諏訪神社の前に甘味処あんみつ姫を経営している幸崎さんから連絡があった。幸崎さんのお店はここ

幸崎さんが言うには、「諏訪神社の総代さんが佐古の若手と話がしたいので、今度時間ありませんか」と連絡があった。
予定を聴くと2017/3/23 19:00だというので、諏訪神社境内にある末社事代主神社の社務所へ行った。

お話というのは、神社に関わる人の高齢が進んできて、神社経営の行く末を考えると、ここらで若い人にも関わってほしいという話だった。

わたしは、神社の経営は宮司一族がいて経営しているとばかり思っていたので、経営者の性でしくみに興味がわき経営形態はどうなっているのかという質問をして、根掘り葉掘り聴きまくった。

現在の経営の話や、歴史の話を総合するとこんな感じだとおもう。

歴史

諏訪神社は、1585年(天正13年)に設置されている。
この年は豊臣秀吉が関白に任じられた年だ。また秀吉の四国侵攻があった年でもある。
旧暦7/25(新暦8/20)に四国統一していた長宗我部元親が降伏している。
秀吉に侵攻を命じられて家政は阿波の国に来た。
蜂須賀家政は、父に蜂須賀正勝を持つ戦国末期の武将だ。父親の正勝は蜂須賀小六とも呼ばれ、尾張の国、今の愛知県で川並衆という集団を率いていた。
その後当時木下藤吉郎と呼ばれた後の豊臣秀吉の幕下に入り、木下→羽柴→豊臣と上司の出世とともに正勝は大名になる。秀吉は阿波を正勝に与えようとしたが老いていると辞退しの息子「家政」へ阿波を渡してくださいとお願いして蜂須賀家政が初代藩主になった。その家政が諏訪神社を設置した。
徳島城の裏鬼門を守る神社となっているが、実際に諏訪神社へ上がると山城の様相があり、徳島平野を見渡せる。どうかんがえても見張り台だったとしか思えない。

また江戸期には一国一城令があり、阿波の国には徳島城以外つくったらあかんでーという状態だった。そこで、新規の城が造れなかったので神社という形で防衛のための支城として眉山山麓に諏訪神社を造ったのではないか。
有名な例では、宮城県宮城郡松島町にある瑞巌寺だ。伊達政宗が作ったが幕府からこれは城ではないか?と嫌疑をかけられたほどなので、実際は城として構想されたのだろう。
諏訪神社も急峻な地形でここに立て篭もられたらなかなか大変そうな造りだ。

神社の経営の変遷

 現在の諏訪神社の組織は、徳島市佐古地区の東側のエリア(厳密にきまっている)の住民が自動的に氏子になっている仕組み。町内会とほぼおなじエリアごとに総代がいて33エリアあり、総代も33人いる。総代で総代会を組織して、総代会長と副会長・会計・監事等がいる。これとは別に敬神会(けいしんかい)という組織がある。敬神会は勤労奉仕団で神社の維持管理を自分たちで行っている。掃除や木々の伐採・植樹などわかりやすく言うと公園管理にちかいものがある。
まとめると、諏訪神社の組織は、神社の運営は総代会、神社の維持管理支援として敬神会がある。

 江戸時代の佐古地区の東側の地区は阿波藩の同心が住んでいた同心長屋がある同心街だった。神社の氏子となる地区と重なる。江戸時代の役職はうろ覚えだけれど、奉行→与力→同心という格付けだったとおもうので。同心は足軽のことなので、いざという時は佐古に住んでいる同心は諏訪神社に集合して徳島城の支城として機能する作戦だったのかもしれない。
 こうかんがえると、江戸時代に諏訪神社が阿波藩からそれなりに遇されていたのも阿波藩の安全保障政策との関係からよくわかる。

そんな諏訪神社も明治期を迎えると廃藩置県で阿波藩が徳島県となっていく過程で阿波藩という庇護者を失う。その後は、地元佐古地区東側に住んでいる住民が氏子として神社を支えて行ったのではないか。
明治以降終戦までは国家神道で神社庁が設置され国家祭祀を公的に行う部分もあったので、神社の活動に公的な後ろ盾があったことは否めないとおもう。
 その後終戦を迎えてGHQが神道指令をだしたり、日本国憲法第20条で政教分離がうたわれたりして、公的な後ろ盾を失っていく。

現在でも諏訪神社の氏子組織は江戸の昔から続く町内会システムとエリアが重なっている。町内会を同じエリアに分かれていて、その中の住民からそのエリアの総代が選出される。エリアが33エリアあり1つ1つから総代が選出されている。総代が集まる会が総代会だ。おおよそ過去からは町内会長=総代としう仕組みのようだ。

 町内会という組織にもふれておくと、都市部の町内会は江戸時代には奉行所のお達しを末端まで伝える仕組みとして成立していた。諏訪神社が安土桃山時代の後期に成立したことを考えると諏訪神社の氏子が町内会とかぶっているのは、2023年の現在諏訪神社の氏子組織が438年前からそのまま続いている可能性高い証明ではないかとおもう。

と書いていたら、長くなったので、一旦終わり。
この記事は、神社のホームページにも転載するので無料にします。

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