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幼少期〜思春期

 子供の頃から絵を描くのが得意だった。でも、好きだったのは生き物で、特に虫が好きだった。将来の夢は昆虫博士。学校が休みの日はいつも河川敷に行って、草むらにいるバッタやカマキリを捕まえて観察していた。自分は大阪市内のそこそこ都会で生まれ育ったので、周りには、自然というものが、あまりなく、唯一の自然は学校の中にあるビオトープと淀川の河川敷だった。学校のある日の休み時間には、同じく昆虫好きの子と2人で、一目散にビオトープに向かった。そこで、池で泳ぐメダカを見たり、岩をどけてダンゴムシやミミズを探したりしていた。
 父は京都と奈良の県境にある山田川という場所で生まれ育ち、高校の頃に、大阪に出てきた。父が子供の頃は、家の周りは田んぼだらけで、そこらに牛が歩いていたという。そのような育ちだったのもあり、僕が生き物が好きなことを肯定してくれた。たまの土日には、車で遠くの山に連れていってくれた。そこには、学校のビオトープや、淀川の河川敷では見られない珍しい生き物がたくさんいた。捕まえて虫かごに持って帰りたかったけど、なぜか、それはしなかった。父がかわいそうだと教えてくれたからかもしれない。僕自身も子供ながらに、それはかわいそうな気がするということはなんとなく理解していたと思う。もしかすると、虫たちを自分自身に重ねていたのかもしれない。僕は都会で生まれ育ったが、都会に少し窮屈さを感じていた部分もあるからだ。この頃に、僕の中で、自然や生き物に対する敬意が育っていったように思う。そして、自分は人間で、自然を荒らす側なんだと思うようになったのもこの頃からだと思う。それは大人になった今も、より強く感じる。
 中学校はバスケ部に入り、虫のことは忘れていた。というか、そうゆうのはモテないからという思春期からくるアレで、自分が虫を好きだったことや、絵が得意だったことからも、遠ざかっていた。それより、ゲームやマンガ、音楽や映画といった、いわゆる流行りの遊びに夢中だった。バスケ部に入ったのも、スラムダンクの影響だ。その頃の僕は、学校が終わったら、部活に行くか、部活がない日は、一目散に友達の家に集まって、朝から晩まで任天堂64のスマブラをして、家に帰ったら弟とゲームボーイのポケモンをしていた。
 高校に上がる頃には、ps2が家に来て、僕はファイナルファンタジーシリーズにどっぷりハマった。特に好きだったのはFF9で、ミニチュアなキャラクターと幻想的な世界観が好きだった。そして、どこかに悲しみや憂いが感じられる、とてもいいゲームだったと思う。ゲームは今でも好きだが、専ら観る専門で、YouTubeのプレイ動画を視聴するぐらいだ。実を言うと、あの頃ほど、ゲームの世界に没入できなくなってしまった。多感な時期の『好き』という感情は、本当に強いものだと思う。そして、その頃に見たものや、影響を受けたものというのは、大人になった今も、僕の記憶に根付いている。生き物が好きだったことも、ポケモンやFF9も、今の自分を構成しているもののひとつだ。

 さて、絵の話に戻る。

 中学生の頃、これと言って、得意なことが無かった。成績は中の中。テストはいつも平均点。どの教科もそうだったが、唯一、美術だけは良かった。そのまま高校に行っても、自分は何を目指していけばいいか分からない。ただ、何となく、普通に高校→大学→就職というルートが、自分にはつまらなく思えた。それだけは確信していた。かと言って、一芸に秀でているというものもない。体育も出来ないことはないが、アスリートになれるほどのものは当然ない。となれば、やっぱり絵か… 小学校の卒業文集では、イラストレーターになりたいと書いていた。しかし、なり方がわからなかった僕は、とりあえず美術の先生に相談してみると、美術高校に推薦してくれると言ってくれた。しかし、当時の自分の成績は、大して優秀ではなかったので、そこそこの美術高校なら推薦できると言われた。僕は、勉強も内申も、そこまで頑張りたくなかったので、そこでいいと言って、家に帰って親にそのことを話した。しかし、父と母は僕の美術高校への進学に対しては、やや反対気味だった。絶対に行くなとは言わないが、もし、僕が、途中で進路を変えたくなった時に、選択肢が限られている美術高校へ進学することは、オススメできないという理由だった。もし、本当に美術がしたいなら、高校に進んでからまた考えればどうか?とやんわり反対された。多分、今から思えば、僕がそこまで本気で美術の道を志しているとは2人とも思っていなかったのだろう。ただ、美術の先生に言われて、急に思い立っただけだから、とりあえず高校に行けばまた心変わりするだろうと判断したのだと思う。自分が親の立場なら、同じように思うと思う。僕は親の反対を押し切ってまで、美術高校に行こうとは思わなかったので、素直に従った。そして、高校は、家から電車で1時間弱の場所にある、私立の進学校に入学した。当然、美術とは無縁の普通科の高校だった。
 高校に入ると、バスケ部の延長で、同じ球技という理由から、ラグビー部に入部した。何となくそこに青春を見出そうとしたのだが、これが思いっ切り失敗だった。その頃の僕は身長170㎝の体重52kgという、いわゆるスリムで、特にマッチョというわけでもなかった。なのに、なぜ、ラグビー部を選んだのか今でも自分が不思議で仕方ないのだが、入部早々に、入る部活を間違えてしまったことに気付いた。2年、3年の先輩がゴツくてイカつい人ばかりだったからだ。僕は性格もそこまで体育会系ではなく、むしろ、文化系だ。自分は人間をそんな風に何々系とかで分類することは本当は出来ないことだと思っている方だが、あの場面では完全に自分が場違いだと分かった。当然ながら、夏が来る前にラグビー部を去った。僕の中での青春が、始まる前に終わった気がした。そこから何をしようかと考えた時、僕の中に浮かんできたのは、勉強でも恋愛でも、音楽でもなく、絵だった。よし、絵を描こう。そして美大に行くんだ!なぜか、僕の中でそのことが決まった。根拠のない自信のようなものに満ち溢れていた。僕は速攻で、祖母に連絡して、小学生の頃に通っていた児童絵画の教室に、もう一度、今度は受験生として習いたい。と伝えた。実は小学生の頃、隔週で、土曜日だけ、祖母が絵画教室に通わせてくれていた。そこは、二階建ての一軒家で、一階が美大受験の教室で、2階が子どものための児童絵画の教室だった。僕はいつも2階に上がっていく階段の途中、一階でたくさんの高校生のお兄さん、お姉さん達が、鉛筆デッサンをしている風景を見ていた。その時の僕には、鉛筆とねり消しだけで、目の前のリンゴを画用紙の中に出現させる魔法の特訓をしているように見えた。画用紙の中のリンゴは触れそうなぐらいリアルだった。あの時の光景が脳裏に焼き付いていて、僕はあれをやりたいと思った。祖母は二つ返事で了解してくれた。すぐさま電話をかけてくれて、翌週から受験絵画の教室に通い始めた。その頃は、僕が小学校の頃に通っていた教室は無くなっていて、新しい教室になっていた。教室に行くと先生も変わっていて、あの時と同じように、受験生の人たちが、机に向かって静かに絵を描いていた。シーンとした教室内に響く、コンコン、カリカリという鉛筆の音。僕の青春はここから始まるのだと確信した。それは、15の夏だった。

odango dango 竹沢 佑真

つづきは『学生時代』をお読みください。

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