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#03 202号室 半熟卵がけご飯

「おばあちゃーん。上履きがなーい」

オレンジジュース色のドアの
202号室の月曜日は
いつも和花の元気な困り声で始まる。

洗面所の
綺麗に磨き込まれた鏡の前で、
真っ白い髪を結い上げていた八重子は
ひょい、と顔だけ廊下に突き出した。

「ちゃんと洗って、
ベランダに干しておいたでしょ。お外見てごらん」

しばらくして
「あったー!」とまた元気な声が返ってきた。

八重子は「でしょう」と呟いて、
それから鏡の中の自分によおしと気合を入れ
ぎゅっと割烹着の紐を結んだ。

今年75歳を迎える冬月八重子は、
白髪をひとふさ桃色に染め、
シャキッと背筋正しいおばあちゃんだ。

3年前に離婚した息子夫婦の娘で、
八重子にとっては孫にあたる
小学4年生の和花を、女手一つで育てている。

和花は、
長いさらさらの黒髮を腰まで伸ばし、
そばかすを顔にいっぱい散らした、
おてんばな10歳の女の子。

「きっと将来、私に似たべっぴんさんになるわ」
と八重子はいたずらっぽく、
水泳仲間のご婦人たちに自慢していた。

八重子がパリッとした
割烹着姿で台所にやって来ると、
お茶の間で髪をとかしながら
朝のニュース番組を見ていたパジャマ姿の和花が、興奮気味におばあちゃんを振り向いた。

「おばあちゃん!
 見て見て!シャリーズ出てるよ!」
「あらっ」

和花を引き取ってから、
今時の小学生ならではの楽しみを
八重子はたくさん学んで
その度に興味津々になっていたが、
かなり熱をあげたのが
アイドルグループ『シャリーズ』だった。

「だって今の子って、みんな目がくりっとしてて、
 鼻筋がすっと通ってて、イケメンなのよ!」
水泳仲間のご婦人に、何度そうやって布教したことだろう。

「いいなあ。かっこいいいいい。おばあちゃん、 
 今度こそコンサートのチケット当てようね」

和花が意気込むと、
横で同じくテレビに釘付けになっていた八重子も、「そうね」と真剣な面持ちで頷いた。

『シャリーズ』は、
八重子にはさっぱり理解できない速さで歌って
目がついていかないスピードで踊っていたけれど
1週間の始まりに
日本中のお茶の間を
感嘆のため息で包み込んだに違いない、と思った。

「おばあちゃん、
 ユーチューバーてやつになろうかしら」

テレビからなんとか目を離し、
朝ごはんの準備をしに台所に向き合いながら
八重子は愉快そうに言った。

ユーチューバーというのも、
この間和花に教えてもらった単語だった。
インターネットの配信サービスで、
色々面白い映像を撮って、みんなを笑顔にする
今では小学生に人気の職業らしい。

現に、この間和花と見た
どこかの社長(?)という
一番有名らしいユーチューバーがとったビデオも
八重子は顎が外れそうなほど大笑いした。

「『75歳、シャリーズ大好きおばあちゃん!』て、
アピールしたら、おばあちゃんもニュース出れないかしら。あわよくば、シャリーズに会えちゃったりして」
「えー?」

和花がゲラゲラ笑い出した。

「やばいね!でも多分炎上するよ!」
「炎上?」

75歳と10歳。
まさに、60年以上、半世紀以上も
年代のギャップがある。
八重子が見て育ってきた世界とは、
180度以上角度の違う世界に
和花は生きているようだった。
日本語だって、たまに理解できなかったりする。

だけれども、
和花と一緒に住み始めてから、
八重子の暮らしは信じられないほど明るく
楽しく、ワクワクが絶えないものになった。

夫の良平さんが病気で亡くなって15年。
夫婦で仲良く営んでいた
夕焼け町の学生食堂も店じまいをして
息子も娘も結婚し、八重子は1人になった。

もちろん、それからも
シャキシャキと暮らした。

きちんと自分の食事を作り、
盆踊りの先生として小学校をまわり、
規則正しく生活した。
お友達もいた。
しかし、張り合いがなかった。

なぜ、
こんなにしっかり生きているんだろうと、
虚しくなる時すらあった。
猫でも飼って見たら、と息子にさらっと言われ
なんだか落ち込んでしまった時もあった。

それが3年前、息子夫婦が離婚をし、
突然、当時7歳だった和花を引き取ることになった。

理由は、よくわからなかった。
でも、和花がおばあちゃんがいいと、
自分から言ったようだった。

最初は、
お互い戸惑いながら暮らしていたけれど、
次第に八重子は、
昔子どもたちと夫で囲んだ食卓のように
自分の暮らしに
生きがいと張り合いが、戻って来るのを感じた。

和花は、
おばあちゃんおばあちゃんと、
いつも抱きついてきてくれるようになった。

それから徐々に、
一緒にお買い物に行ったり、
映画を観に行ったりすることが増えた。

毎日、
和花の学校での出来事をお茶の間で聞き
可愛らしい恋愛相談に乗り、
たまに遊びに来る和花のお友達のために
クッキーやスポンジケーキを焼いてあげ、
夜はあったかい布団で、
2人並んで眠る。
和花の小さくておしゃれなワンピースを縫い、
上履きを洗い、髪を結ってあげる。

もちろん、
ちょっと厳しく叱ってしまうこともある。
和花が両親を想って
泣いてしまう時もあった。

それでも、その一つ一つが、
八重子にもう一度人生の美しさを
誰かのために生きる喜びを
思い出させてくれたのだった。

「お腹すいたー」

和花が、いつのまにか八重子の隣に立って、
フライパンの中で
ジューッと焼ける目玉焼きを眺めていた。

「ね。さあ、お箸とランチョンマット敷いて。朝ごはん食べよう」

冬月家の朝ごはんには、
いつも決まって目玉焼きが出てきた。
それは、
八重子が学生食堂の女将をしていたころ
学生たちにせがまれて毎日作っていた名残だ。

「変に凝った料理より、
 お袋が毎朝作ってくれるような
 半熟の目玉焼きを、白飯に乗せて食いたい」

学生たちが
そう目を輝かせて言ってくるから
八重子たちの定番メニューには、
いつも半熟卵かけご飯があった。

夫の良平さんも
「お前の目玉焼きは、天下一美味い」
と言ってくれていた。

和花も、うちに来てから毎日飽きずに
「美味しい!」と言って平らげてくれている。

「いただきます」

藍色の生地に刺し子が施されたランチョンマットには、お椀に輝く白米
わかめのお味噌汁、ウインナー
そして半熟で、 
今にもとろけそうな目玉焼きが並んだ。

和花は、器用に白身の部分から食べて行き、
最後に半熟とろとろの黄身の部分だけ
えいっとご飯に乗っけて食べていた。
すっとお箸で切り込みを入れると、
白いご飯に、トロッとした黄金の川が流れていく。

「これこれ。この瞬間がたまらないんです。では冬月和花、皆様を代表して一口いただきます」

テレビのリポーターみたいに和花は言って
あーんと一口頬張った。

そして、くしゃっと笑顔になる。
声に出さずに、大げさに頷いた。
八重子は、自分の目玉焼きも
ヒョイっとご飯の上にのっけた。

照りのあるその半熟の黄身が、
優しく八重子にウインクしているようだった。

八重子は、元気に言った。

「では、わたくし冬月八重子おばあちゃんも、皆様を代表して、いただきます」

ケラケラ笑う和花の声が、
今日も明るく、冬月家の食卓を包んでいた。

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