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#02 101号室 カレー

「ラムネ色のドアが、真夏の山を思わせていいね」
と、夫の正一と決めたのは、15年以上前のこと。

当時、大きなお腹を抱えていた香織は、
「こっちへおいで!」
と呼んでいるような遥かな山々と
その麓に抱かれた 
夕焼け町を見渡せるこのアパートを、
一目見て好きになった。

それから、
夕焼け町のいちとせ病院で、息子の卓哉を
2年後には娘の凛を出産した。

現在は、
中高生になった子ども達2人、
42歳の夫 正一、そして柴犬の餅太郎の
合わせて4人と1匹で、このアパート『こしあん荘』に騒がしく暮らしている。

今日は日曜日。
台所の窓の向こうには、
澄み切った青空が静かに広がっている。

けれど、 
2人の野球少年少女と、
元気が空回りする夫を抱えた
夏林家の台所朝7時は、
9回裏のマウンドのごとく騒がしかった。

「凛!卓哉!起きて!練習間に合わないよ!」

母 香織が、
隣り合った2部屋のドアを容赦無く開けると、
それぞれの部屋の奥から呻き声が上がる。

「5分で出れるからいい」

左側の扉から、14歳の凛が情けない声を上げた。
これは凛の常套句なわけであるが、
思春期真っ只中の女子中学生が
5分で身支度を済ませられるはずもなく、
「前髪がきまらない」だの
「やっぱり豆乳だけは飲んで行く」だの言い出し、やっぱり遅刻するのだ。

「5分で出たことないから起こしてるんでしょ。 
 ほら!ベッドに別れを告げて!」

そう言いながら、右側の扉にチラリと目をやると、15歳の兄 卓哉が不機嫌そうに
ベッドで寝返りを打つのが見えた。

「俺はほんとに5分で出れるからいい」
というようなことを
ボソッと言ったように聞こえた。

それぞれにごちゃごちゃ抗議している子ども達の次は、リビングで大の字になって布団を被っている夫に取りかかる。

「お父さん。寝坊したら次の地区大会、 
 初戦敗退って星座占いが言ってるよ!」

すると、 
真っ黒に日焼けした夫の顔が、チラッと布団から覗いたが、
「なんて縁起の悪いことを…」
と呻き、また沈んでいった。
5秒後には、リズミカルないびきが聞こえてくる。

香織の朝の大号令にちゃんと従うのは、
朝ごはんの焼き魚の骨を狙う餅太郎だけだった。
夏林家の、いつもの日曜日である。

香織と夫の正一は、
同じ大学の登山サークルで出会い、
5年の交際を経て結婚した。

天真爛漫な香織と、
元気が空回りするタイプの正一は、
周りが若干引くほど破天荒で、
活力に満ちた夫婦になった。

その後生まれた卓哉と凛は、 
小学生の頃から地域の少年野球チーム『ペガサス』に所属し、
父 正一はそのお父さん監督をしていた。

夕焼け町の外れにある大きなグラウンドで、
毎週日曜日、
町中が夕焼け色にとっぷり浸かるまで
声を枯らして練習に励んでいた。

卓哉は、小さい頃から腕が良く、
チームのピッチャーを任されていた。
妹の凛は、小さい体でも足が速く、
男の子に混じって一生懸命セカンドを守っている。

誰に似たのか、2人ともとことん負けず嫌いで、 
お互いが最大のライバル。 

チームが勝っても負けても、
練習終わりの我が家の台所は
その日のお互いのプレーの評論合戦になり、
そこに父親の余計な合いの手も加わって
結局卓哉か凛のどちらかが、泣きながら夕食を食べることになったものだった。

そんな卓哉も高校生になり、
『ペガサス』を卒業して、高校の野球部に入った。
それから毎日毎日、
ご飯を何合炊いても間に合わないほど、
よく食べる。

お弁当も、
お弁当というよりミニ冷蔵庫かな?
と思うくらい食べ物を詰めて持たせても
どこに吸収されていくのかわからないほど、
食べるようになった。

凛は、相変わらず少食だけど、
幼馴染達とのチームに兄がいなくなり、
少し肩の荷が下りたのか
さらにやる気が入ったのか
毎日しっかり残さず食べ、眠り、
練習に励んでいた。

そんな子ども達の成長が、
母はいつも嬉しかった。


香織は、
誰も自らの号令に従わなかったことを気にもとめず、玄関脇の段ボール箱から、
ごろっとしたじゃがいもと、人参
そして玉ねぎを抱えて
シャキシャキと台所に戻ってきた。 

使い込まれたヒノキのまな板に
その野菜達を並べると、よしっと笑いかける。

「じゃ、作りますか!カレー!」

野菜を冷たい流水で洗い、
じゃがいもは角を取って、水にさらす。
人参はいちょう切りに、玉ねぎは薄く切る。 

豚肉は、
クミン、ガラムマサラ
ロイヤルマサラなどのスパイスと
ホタテパウダー、にんにく、塩胡椒で
昨日の晩から漬け込んだものを。

ジュワーっとお腹の空く音がして、 
玉ねぎがカラメル色に染まっていく。
香織は、木べらで野菜とお肉を炒めながら、
ワクワクした。

夏林家には、
一つだけルールがある。
それは、
「人の好きなことは、絶対にバカにしない」
ということ。

卓哉にも凛にも、好きなものがある。
お母さんとお父さんにも、
同じように好きなものがある。
それを、否定しない。バカにしない。
それだけは、約束。

じゃがいもや人参、
玉ねぎの持ち味が違うように、
家族の中の一人一人も、みんな違う。 

だから、それぞれ大事に思っていることが
違っても当たり前。

じゃがいもは、じゃがいもで、
人参になる必要はない。

それとおんなじように、卓哉が凛になる必要も
正一が香織になる必要もない。

でもそれは、
相手の心の中に何があるのかは、
完璧には見えないってことだから。

だからこそ、わからないからこそ、
人の好きなものは、バカにしない。
その人にしかわからない良さが
そこにあるんだから。

そのルールを、
母である香織自身がちゃんと守れるように
今日は香織が、自分の大好きなことを、
家族に遠慮せずにする日だった。

山登りである。

山を登っている時、
ずっと夕飯の献立で頭がいっぱいにならないよう、山登りの日は朝にカレーを作っていく
というのが、
長年香織に採用され続けてきたアイデアだった。

子供達の野球チーム『ペガサス』は
お母さん達のサポートが必須なので、
チームに子どもが2人もいれば、
長年の付き合いから
みんな身内のように仲良くなっていた。

毎週、練習終わりに
子ども達にアイスやハンバーガーを差し入れたり
遠方への試合の送迎をしたり
連絡網を送りあったり。

平日のパートと
週末のサポートをこなすのは大変だった。 
でも、香織が何よりも楽しみにしているのが、
ママさんチームで
夕焼け町を囲む雄大な山々へ
登山に行くことなのだ。

この辺りの山は、
雪道でも日帰りで登れるものが多い。
駅でみんなで買ったおにぎり弁当を山頂で食べる あの清々しさといったら!

雪がちらついた時に、
みんなでキャンプのようにはしゃぎながら、
インスタントラーメンを魔法瓶のお湯で作って、
あちちと言いながら頬張る瞬間が
ママさんチームみんなのお気に入りの時間だった。

それを、
心から満喫するために朝からカレーを作るのは
楽しいし、何より美味しくできる。
昇りつつある太陽に照らされたお台所で
イライラや疲れなんて
まだ生まれていない心で作るのだから
当然かもしれないが。

さて。

野菜や肉を炒め終わったら、
そこになみなみと水とトマト缶を流し込んで、
グツグツ静かに沸き立つまで待つ。

十分に煮立ったお鍋の中に、
刻んだカレールーを加えて、
あとはとっぷりとろみが出るまで
弱火で待つだけだ。

鼻をツンとつくスパイシーな香りが
101合室の台所を包み込む。

「いい匂い」 

香織は満足げに、台所で伸びをした。
天気は快晴、カレーも完成。
絶好の登山日和になりそうね。

時間もあるし、
クッキーなんて焼いちゃおうかしら。
みんなへの差し入れに!

なんて優雅な気持ちに浸っていたところに、
顔をくしゃくしゃにこすりながら
息子の卓哉が気だるそうに起きてきた。

「おはよ卓哉」
「ん」
「凛はまだ寝てるの?」
「いや、なんか鏡見てる」
「また寝癖かなー。前髪がーとか言って泣きながら練習いくことにならなきゃいいけど」 

卓哉は肩をすくめ、 
冷蔵庫をカパッと開き、牛乳を取り出した。
そして、ふと思いついたように母の方をチラッと見て言った。

「今日、弁当いるから」

チョコチャンククッキーと抹茶クッキーのどちらを焼こうかな、なんて考えていた香織は、ギョッとして息子を振り返った。

「え?練習午前で終わるんじゃないの?」
「いや、練習試合になったから」
「ちょっとそれ、昨日の夜に言いなさいよ!」

登山への優雅な妄想が吹き飛び、
香織は慌ただしく、お弁当に詰められそうなものを冷蔵庫に探し回った。
クールな顔して牛乳を注いでいる息子に
ブツブツ言いながら。

カレー鍋は、そんな香織を横目に
楽しげにコトコトと音を立てる。
夏林家の、いつもの日曜日である。

窓の向こうから、
遥かなる雪山が、微笑んでいる。

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