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#109 自分に影響を与えた両親の言動~Tetsu Adachiさんのコメントより~

本日は早くも1月7日になってるんですけれども、すみません、私、本当にお礼が遅くなりました。
年末年始の放送と100回記念にコメントをたくさんいただきまして、ありがとうございます。
いただいたコメントの一つ一つに、めちゃくちゃ続ける元気と勇気をいただきまして、頑張って次は200回を目指していこうかなと、本当に心からそう思いました。ありがとうございます。
そして年末に池ちゃんとの対談を配信しまして、そこで金曜日のネタが一番困るっていう話をしましたら、こちらもですね、ゆるい金曜日のネタプラスアルファいろんな情報提供をいただきまして、今はこれで当分喋ることには困らなそうだなと、ホクホクした気持ちでいっぱいです。

今日は木曜日なんですけれども、いただいたコメントの中からこんなことを取り上げたいなと思います。
Tetsu Adachiさんからのコメントです。Adachiさんいつもありがとうございます。

【小田木さんの心に残っている、小田木さん自身に影響を与えたご両親の言動って何かありますか?もしあれば、親としての自分の言動の参考にしたいです。】

こんなテーマですね。
自分に影響を与えた両親の言動。
皆さん、何が思い浮かびますかね?
私もこのAdachiさんのコメントをもとに振り返ってみまして、私なりのっていうところを今日はお話しできればと思うんですけれども、内容は個人のケースって感じだと思いますので、ぜひ皆さんも何かこれをきっかけに振り返る機会になればいいなって思いました。
テーマはですね、40になって振り返る両親の言動。

自分に影響を与えた両親の言動

まず父ですね。私の父はですね、怒るとめっちゃ怖かったんですよね。
年をとって今、多少丸くなりましたけれども、当時はイタズラでもしようもんなら物置に閉じ込められるみたいな感じで、兄弟の中では父要注意って感じでした。
我が家は自営業でお茶農家なんですけれども、農家だったので、仕事と生活がめちゃくちゃ近いんですよね。両親はいつも見えるところで仕事をしている、繁忙期は生活が変わる。
家と職場、仕事と生活っていうのが、近いっていうよりも、ほぼ混在していた状態だったなって思います。
農家じゃないですけれども、在宅勤務なんかをするようになって、ちょっと今に通じる状況だったなってふと思ったりもします。
父はですね、今振り返るとですけれども、本当に真剣に仕事していたなって思います。多分、茶業っていうのが好きで熱意もあったんだと思うんですけれども、ライフ・イズ・ワークなのかはワーク・イズ・ライフなのか、とにかくそんなイメージを今振り返ると強烈に持っています。今も現役なんでそんな感じなんですけどね。
そして怖かった一方で、勉強進学には一切口出ししなかったなっていうのも振り返ると印象的です。
ただ、ちなみにそんな父を見ながら、当時私がどんな事を考えてたかっていうと、なぜ我が家はこんな田舎にあるのか。
どのぐらい田舎かっていうと、最寄りのバス停まで自転車を一生懸命こいで15分みたいな。そんな感じの田舎なんですけれども、なぜこんな田舎にあるのか。
茶業って、ゴールデンウィークが一番茶、新茶シーズンで一年で一番の書き入れ時なので、絶対遊びには行けないんですよね。遊べないどころか、丸必で手伝わなければいけない。
だから友達はお出かけしたりしてるのに、なぜゴールデンウィークに遊べないのか。そんなことしか考えていなかったですね。

母はどうだったかっていうと、とにかく強烈に印象に残っているのは、いつも笑顔だったな。誰にでも笑顔だったなっていうことですかね。
感情的に怒ったり、人のことを悪く言うことを聞いたことがなかったなと、今振り返ると思います。
母の場合は亡くなっているんで、私の記憶が多少美化されている部分もあるかもしれないですけれども。
ただ、当時の私はそんな母に対してどんなことを思っていたかというと、私とお母さんは違う。私はそんなふうにはできない。むしろそういった母と一緒にされるのがめちゃくちゃ嫌だったので、本当一緒にしないでほしいって思ってましたね。
ちなみに今、母親になった私自身はですね、子どもに感情的に怒りまくりで、そこは遺伝しなかったなという感じです。

こうやって振り返ると、今なら理解できること、今ならわかることっていろいろあるんですけれども、振り返ってショッキングなのは、当時って何ひとつ理解してなかったなって思うんですよね。
父のことも母のことも、今みたいな感じで見れるようになった、振り返れるようになったのは、30超えてから。自分が結婚して子どもを持ってから。
そこにタイムラグが20年以上あることに、自分でも驚愕的に驚きました。

その後、影響を与えたことで強く残っているのが、母が母の年齢で40歳の時に癌が見つかったんですね。
そこから手術したり再発したり、体ももちろん変わっていったりということがあったんですけれども、かなり辛い闘病生活だったはずなんですけれども、それでもずっと子どもに対しては笑顔の記憶しかないんですよね。
そういった状況だと、さすがに当時の私はいろいろ理解しただろうって思うじゃないですか。それは高校生から大学生にかけての期間なんですけれども。ところが、その時も私はまったく理解をしなかった。
その時はそういう姿勢が一切伝わってなくて、どうなってたかというと、お母さんが病気になってしまった、こういう自分の気持ちでいっぱいいっぱいなんですよね。
こういったことも、30を超えて自分が家族を持って、当時のことを振り返りながらようやく理解したのは、自分が大変な時に笑える、これって本当に優しいことなんだな。
自分が大変なことよりも、自分に対峙する相手のことを考えられる。そうかそうか、やさしいことって強いっていうことだったんだなって思えたのも、母が亡くなって10年以上経ってからかなと思います。

子どもに伝わるには膨大な時間がかかる

ここから何が言えるのか、完全に私の私見ですけれども、ちょっとまとめてみました。
まず一つはですね、親から子どもに何か伝えるっていうことには、とにかく時間がかかるし、全部は伝わらないんだなって改めて思いました。
時間がかかるってどのぐらいか?
一ヶ月とか一年じゃないんですよね。10年から20年以上。下手したら、自分が生きているうちに伝わるかどうかもわからない。こういうことなんだなって思いました。
ただ、その時は伝わらなくても、大事なことはどっかでは伝わるんだなっていう、そんなふうにも思います。
今、自分の日常を振り返ってみると、つい子どもに対して、今言わなきゃとか、今わかってもらわなきゃみたいな感じで、一生懸命に言葉でだけ言おう言おうとしちゃうんですけれども、これってその場ですぐに伝わるわけないじゃんっていうことを、改めて頭に置かなきゃいけないなって思いました。
その中で私が唯一心がけていることは、とにかく真剣に楽しそうに働く姿だけ見せておきたいな。これだけ伝われば、きっとあとはなんとかなるだろう。仕事が好きだし、楽しいって思えるようなマインドセットさえ手に入れば、あとはなんとかなるなって思っています。
なので、もし何か一個だけしか伝えられないとしたら、もうこれだけ伝わればいいみたいな感じですね。
伝えるっていっても言葉では伝わらないので、そういう姿勢、ポーズを繰り返し繰り返ししていくっていうことだけかなと思っています。

最後にですね、じゃあ子どものためにいろいろ言ったり伝えたりやったりしても意味がないのかって思っちゃうかもしれないですけれども、私、大好きな言葉がありまして、それはですね、『人は覚えていない記憶でできている』こういう言葉なんですね。
誰が言ったかは全然わかりません。
要は、今の自分を作っているのは、覚えてない記憶の数々だっていう、そういう言葉なんだと思うんですけれども、さっき私が振り返ったみたいに、覚えているのは断片的であったとしても、今の自分自身を作るのが覚えていない記憶の数々だって思えば、今の毎日を子どもと一緒に楽しんで大事にしていくっていうところには大きな価値があるのかなって思いました。

ということで以上になります。
Tetsu Adachiさん、本当にコメントありがとうございます。
皆さんがどんなことを思い出したのか、もしよかったらコメントもください。
それでは今日も一日良い日にしましょう。

小田木朝子プロフィール

「仕事が好きだし、楽しいと言い合える女性が増えることが喜び」小田木朝子(おだぎともこ)です。
このチャンネルは両立女性のためのオンラインスクール育休スクラから出産後の変化を柔軟に乗り越え、仕事がもっと楽しくなる“知恵とヒント”を平日の毎朝配信しています。2回の育休を経て、現在人材育成・組織開発を行う株式会社NOKIOOの役員をしています。
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