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おだぶんの「日々雑観」44 いざさらば

こんにちは。おだぶんです。
3月も今日でおしまい、一気に暖かくなって、遅くなった桜の開花も一気に進みそうです。
この季節と言えば、やはり卒業や転勤など、別れがキーワードになりますね。様々な別れのシチュエーションがありますが、少し変わった別れについてお話します。

 3月15日、私がライフワークとして応援している、千葉県の一番東の地を走る銚子電鉄で、古参車両が退役となった。2001ー2501という番号の小さな2両編成の電車である。

水色と濃紺の配色の車で、元は京王線で使われていて昭和37年に製造された車両。昭和の末期に一度目の退役をし、仲間が解体されて行く中運良くそれを免れて、四国は愛媛県の伊予鉄道で再び活躍する機会に恵まれ海を渡る。
南国の風に吹かれ、冷房装置を載せてもらい地元の足として活躍し、平成22年に運命の悪戯により銚子電鉄への譲渡が決まり、二度目の退役。一緒に渡った仲間を残して銚子へやって来た。それか約14年、銚子の潮風を纏いながらのんびりと走って来た。
銚子にやって来た翌年、東日本大震災が発生、銚子は千葉県唯一の被災地となる。そんな混乱の中を銚子電鉄のニューフェイスとして、中古の中古車ではあるけど健気に走り続け、地元住民を励ました。

来銚当初はグリーン一色に塗られていた。
このグリーンは最初に奉公した京王での配色で、私も少年時代に乗った事があった。
リバイバルカラーとして選ばれたのがこのグリーン。
銚子の青い空と、一面のキャベツ畑にこのグリーンはとてもよくマッチした。2001ー2501は、長い事低迷していた同電鉄の再浮上を予感させるものがあった。

 銚子電鉄を救うべく社長になった竹本勝紀氏。
当時、震災の風評被害で壊滅的打撃下にあった同電鉄を、様々な斬新かつ奇抜なアイデアを展開し、ぬれ煎餅、うまい棒をオマージュしたまずい棒などをヒットさせた。
竹本社長は2015年夏、なんとこの2001ー2501を使ってお化け電車を走らせたのだ。コレが話題呼んでヒット、一役マスコミから注目される事となった。日本一のエンタメ鉄道として、竹本社長のアイデアを形にしたのがこの車だ。
この2001ー2501は、低空飛行だった銚子電鉄を不死鳥の如く舞い上がらせる原動力になったと言っても言い過ぎではないと思う。

2014年に伊予鉄から同じ運命を辿り、弟分の2002ー2502が銚子入り。この弟分は来た早々、笠上黒生駅での脱線事故に見舞われ受難の運命、しかし竹本社長と社員の尽力で愛される鉄道に変貌していた銚電、なんと銚子商業高校の生徒さん達が立ち上げたクラファンで見事に修復・復活‼️それも先入りの兄貴分と竹本社長が紡いだ絆があったことは言うまでもないと思う。

 私と銚子電鉄の縁は2021年、コロナ禍で乗車人員が減少していた頃・・・
初めて乗ったのは弟分の2002ー2502、当時売り出し中のピンクニュージンジャー号。
2001ー2501に出会ったのはその翌日。朝早い二本体制運行の時。
笠上黒生駅での上下交換、それから2001ー2501との縁が深まった。、
銚子電鉄に惚れ込んでそれからというもの、ほぼ月一の訪銚が始まった。そんな中、何故か2001ー2501編成に遭遇する事が本当に多かった。
晩年の2501は、大正ロマン電車として改良されていて、室内装飾はシックな基調でまとめられており、地味好みの私にはベストマッチ、訪銚の時にこの編成が入っている事を知ると、とても気持ちが安らいだのは言うまでもない・・・。
私が訪銚する度に迎え出てくれた2001ー2501。
私は乗り込むと大正ロマン電車・2501に移動して、その雰囲気に浸るのが好きだった。
昼の明るい車内でも、窓にあしらわれた大正調ステンドグラスから放たれる光は神々しく、かつ柔らかくて癒しそのものだった。その装飾は、2020年に米津玄師さんのカムパネルラというMVの舞台にも採り上げられ、動画サイトにその時の姿がたくさん上げられている。
以降彼らとの出会いは多くなり、たくさんの画像や動画に納まる対象となってくれた。
緑のトンネルを抜けて本銚子駅に進入するシーン、仲ノ町駅でのんびりと昼寝するシーン、沿線の踏切を通過するして行くシーン・・・
彼らは完璧にファインダーを彩ってくれた。
単なる老いぼれた旧車だけども、様々なドラマを納めさせてもらえた。
今となっては幸せな、素晴らしい宝物だ・・・。

そんな2001ー2501に引退の動きが出たのは昨年夏のこと。
銚子電鉄100周年の一環として、新車導入にあたり引退の話出たのがこの2001ー2501。
順繰りでは確かに妥当な話。彼らの寿命はそこで決定された。残念だけど仕方ない。
新しく入れ替わる新車、といえ車齢55年の中古車は、関西大手私鉄の南海電鉄からやって来る事が決まった。
それから半年あまり、私は銚子に通い、事あるごとにその姿を記録して回った。目に写るものだけでなく、レールの継ぎ目の音、モーターの唸る声、ブレーキの軋み音まで、音に至る全てを魂に刻み込んだ。

そして最後の姿を目にしたのは2024年3月1日、次男坊と訪銚した時。
この日は稼働日ではなかったので乗車は出来なかったが、仲ノ町駅でのんびり昼寝する姿をカメラに納める事が出来た。
連れの次男坊にとっても、この2001ー2501は思い入れがある車なのだ。
実は次男は幼児の頃に一度だけ、グリーンに塗られた頃の彼らに乗った事があった。その写真がつい最近、偶然にも発見されて大変驚いた。その事実をすっかり忘れて一昨年春、二人で銚子を訪れた時、出会いみたいな再会をしていたのだ。次男もこの車の引退を、大変残念がっていた。最後に乗れなかったのが大変悔やまれた。
そして3月15日、ダイヤ改正前日に、2001ー2501引退セレモニーが行われ、その模様は動画サイトやTVなどでも放映された。
その数日後、解体準備のために主要機器を取り外して車体は半分に溶断、62年の生に幕を閉じた。
電車という無機物に、魂は存在しないというがそんな事はない。長く使われた物には魂は宿る、そう私は思う。2001ー2501の魂はこうしてあの世に向かってタイフォンを一声し、回送して行った・・・
骸となった廃車体は、トレーラーに積まれて陸送された。そのシーンをカメラマンが収めたものを、いくつかのサイトで見つけて拝見したが、やはり生気がなく、ただの鉄塊のように見えた。
その昔、私が電車運転士の新人の頃、とある先輩に、「電車は生き物だ」という事を教えてもらった。それは扱い方一つ条件一つで、運転操作や技術に相違が出る事を例えての言葉だが、それだけじゃないとその時思った。昭和の昔の電車は、今思うと生き物だったとつくづく思う。出区前、車庫線でパンタグラフを上げ、電源を立ち上げた時に車体をひと揺すりして起動する様、ブレーキ管にエアを込めた時のシューという音、空気圧縮機がカラカラと回る音、スコンと床下で鳴る断流器の音、今の電子化やボタン一つの簡単操作とは違う、複雑なアナログギミックで構成されていた。運転も雨が降ればブレーキは延び、ノッチは切れ、雑に扱えばヘソを曲げたように乗り心地が悪くなり、停止位置に合わせるのが難しくなる。故障も多かった。
あの頃当たり前に走っていた昭和の電車は、まさに生きていた、そう思う。私も30余年の運転士人生で、昭和の数々の車両を乗りこなして来た。クセがあるヤツ素直なヤツ、各々本当個性があった。運転のカンやコツは、彼らから学ばされた。
そして彼らが役目を終えて次々と、工場の片隅で解体されて運ばれて行く姿を見てきた。長年の戦友であり先輩たちを、見送って来た・・・
その姿と重なって見えて、本当に切なくなった。
諸行無常、世の中は留まる事なく流れていくという真理、会うは別れの始め哉、いつかはこんな日が来るのは仕方ない事ではある。

 2001ー2501の廃車体。とある情報から推察すると、千葉県北西部の我が家近くのリサイクルセンターに運ばれるかもしれないという事がわかった。あくまでもこれは憶測でしかないので何とも言えなかったが、私は3月末に散歩を兼ねて、その業者の作業場近くまで歩いてみる事にした。迷惑がかかるから場所は明言しない。
我が家から歩くと40分くらい、鉄板に囲まれた作業場、ぐるりと回ると作業場の扉が開いていて、何気なく見ると、なんと半分に切断された2001ー2501の廃車体はそこにいたのだ。推察は当たったが、その姿にやはり胸が痛んだ。来なければよかったと後悔した。しかしこれは彼らに呼ばれたんだなと思い、道一本挟んだ所から遠巻きにしっかり見つめて、最期の姿を瞼に焼き付けてその場を後にした。帰り道、さすがに泣けて仕方なかった・・・。
やがて彼らは重機の鉄の爪の洗礼を受け、細かく破砕されて屑鉄になって行くのだろう。工場の片隅で解体を待ちながら、彼らはどんな夢を見ているのだろうか?お化け電車として車内を阿鼻叫喚にした時のことだろうか、大正ロマン電車に改装されて、地元の人や銚電ファンから喝采を浴びた時のことだろうか、車内で展開された数々の小さな心暖まる出来事のことだろうか、仲ノ町駅の側線で、醤油の香りに包まれながらのんびり昼寝をしている時のことだろうか・・・

さらば2001ー2501。

私が数年後、向こうの世界に旅立ったら、重たい一枚扉をガラガラと開けて、私を迎え入れて欲しい。
そしてまた緑のトンネルをくぐり、キャベツ畑を抜けて、真っ白な犬吠埼灯台を横目に、汐風と太陽の匂いのする街外川へ、誘って欲しい・・・

ありがとうございました😇😇😇

※ 尚、この文章は先月末に送信出来なかったので、一週間ほど遅れて投稿させていただきました。

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