サバイバルゲーム 第四話


 とつぜん目の前でバトルが勃発した。真っ暗で様子は見えないが、おばさんが俊郎とエミめがけてモップを降りおろしたのだ。バシッバシッと打ちつける音が炸裂し、その度に「やめてくれえ」「ごめんなさ~い」と二人は悲痛な声で懇願する。奈美子はあわてて制止しようとした。
「や、やめてください」だが、おばさんは狂ったようにひたすら打ち続ける。
たまりたまったうっぷんが一気に爆発したのかもしれない。おばさんの耳には誰の声も聞こえてはいなかった。このままでは殺傷事件になりかねない、奈美子はこの非常事態を一刻も早く打破すべくポケットの中から小瓶を取り出した。いざという時の為の防犯用グッズだ。すぐフタを開けて、おばさんに向かって容赦なく振りかける。
「ゴホッゴホッ、な・・なにっ?ク、クッシュン」効果はてきめんだった。小瓶の中身をまともに受けたのか、おばさんは咳とくしゃみが止まらない。モップ攻撃は阻止したが、効果の余波が密室全体に及んだのは美奈子の誤算だった。
胡椒とカレー粉と七味唐辛子の顆粒が飛びかい空気と同化していた。
「ゲホッ、ゲホッ、ハックショーン」
「くっ、苦しい。息ができない」
「助けて~すっすごい匂い。ゲー吐きそう」エミはゲホゲホと咳き込んだあげく嘔吐した。俊郎は窒息しそうにもがき苦しみ、おばさんはくしゃみの大嵐に襲われている。ハンカチを口にあてていた美奈子だけがどうにか難を逃れていた。
 長々と拷問のような時が過ぎていった。そして再び静寂がおとずれた。ぐったりと疲労困憊して誰も口を開こうとしない。俊郎とエミももう寄り添ってはいないだろう。各自が後味の悪さに沈黙し、夢の島も負けそうな形状しがたい匂いに耐えていた。バケツに用を足す音だけが時おり耳元をよぎる。恥ずかしいという概念は遠い彼方にぶっ飛んでいた。
「どれぐらい時間がたったんだろう・・」最初に重い口をあけたのは、おばさんだった。
「ひどいことして、あんたたちゴメンなさいね。ケガしなかった?」俊郎とエミへの言葉だろう。
「いいえ、きにしないでください」エミが返事をした。しかし俊郎は無言のままだ。エミは壁に寄り掛かっている俊郎の身体をつついた。
「俊クン寝てるの?」ドサッと崩れ落ちる音が床に響いた。「俊くん?」エミが悲鳴をあげて、俊郎の身体を揺さぶる。
「ねえねえ起きて、俊くん。どうしちゃったの?」皆で懸命に呼び覚まそうと努力したが俊郎は気絶しているのか倒れたままだ。脈はあるが、ひどく苦しげに呼吸をしている。
「俊クン、喘息の持病があったのよ」エミが泣きじゃくって叫ぶ。
「だから、いつも薬や呼吸器持ち歩いてたのに・・ぜんぶ車の中でどうすることもできなかったんだわ、俊クン可哀相に」俊郎にすがって、おいおい鳴いているエミの傍らで、掃除のおばさんと美奈子は途方に暮れていた。
モップで力一杯に打ち付けたせいで具合が悪くなったのかと、おばさんは動転し、奈美子は喘息の発作の原因が小瓶にあることを確信していた。
「あんたがモップで殴ったりするから、俊クン発作を起こしたのよ」この状況で、けっして言ってはならない言葉をエミは口走った。
「人殺しぃ、もし俊クンが死んだら、あんたのこと警察に訴えてやるからね」
「なんだってえ」おばさんが声を張り上げた。
「もう一度、言ってごらん。私に今なんていった?」次に起こるおそろしい予感に後押しされ、美奈子は仲裁に入った。これ以上の殺傷沙汰は御免こうむる。
「二人ともやめてください。これは事故です。彼に喘息の持病があるなんて知らないし、エミさんたちが痴話ゲンカしなかったらこんなことにはならなかったんですよ」エミが語気荒く切り返してくる。
「ああそう、でもあんた変なもの、おばさんにかけなかった?あれ、痴漢防止用に経理で今はやってるんだってね。コショーやカレー粉のまざったやつよ」
「あんただったのかい」おばさんが絶叫した。
「そうよ、俊クン倒れたのはあんたたち二人のせいよ。許せない」エミは俊郎から受けたしうちを忘れてしまったのだろうか。あんな男でも本気で愛しているというのか。エミは奪い取ったモップを振り上げ、二人に挑みかかっていく。とっさにおばさんはゴミ袋の中身を、美奈子はバケツの液体を、エミに向かってぶちまけた。
 
・・遠くで物音が聞こえる。やっと助けが来たのだろうか。それとも幻聴だろうか。肥だめのような現状で愛が復活したカップル一組、彼らは救出されたらすぐに結婚する約束をかわしていた。
「エミちゃん僕がバカだったよ、君はこんな僕をかばってくれたんだね。昔、結婚と恋愛は別だって女に言われて大失恋してから恋や愛なんてもの信じられなくなってた。女はみんな打算的だと思い込んでたんだ」
「いいのよ俊クン、でも結婚したらもう浮気しないでね」
「ああ、ここの二人が証人さ」
 エレベーターに向かって人が集まってくる気配がする。
「地震でこのあたりのビル一帯の電気がショートしたからなあ、復旧に手間取っちまってるんですよ」
「でも女房早く探してやってください、どこかに閉じこめられているんだ」必死で訴える中年の男に、おばさんは「うちの亭主だ、おおい、あんたあ」と声を張り上げて呼び掛ける。
「お、おまえ。中にいるんだな?無事なんだな?」
「元気だよ、大丈夫だよ」
「よかったあ、心配して駆けつけたんだぞ」おばさんの亭主は彼女がいうほど悪い男ではなさそうだ。彼らも本心では互いを大切に思っているのだろうと、奈美子は微笑ましかった。自分もガッツで恋人を見つけよう、こんな極限の状況でも愛し愛されるような男を、ぜったいに。
 扉の外では迅速に修理にとりかかったようだ。ややあって、エレベーターの密室に灯りが久々にともる。
「よーし、これでOK。扉を開けるぞ」
あまりの惨状に卒倒しかけた美奈子の耳に、威勢のいい男の声が届いた。
 全員残らず百年の恋も冷めそうな悲惨なありさまだった。救出にきてくれた人たちはどんな反応をするのだろうか。それよりも、おばさんの亭主はまさか逃げ帰ったりしないだろうか。エミと俊郎は仰天した様子で互いを見ていた。ショックのあまり放心状態に陥ったのかもしれない。ついさっきまで、彼らはその同じ姿で熱っぽく愛の言葉を語り合っていたのだ。
 美奈子の心配をよそに、新たなる展開への扉がゆっくりと開きはじめた。
(おわり)
 

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