終わった(断片の短編)

 誰が言うかで文章の意味が変わるってほんとだなと思ったのは、彼女が「私は、なりたい自分になりたい」と言った時で、それは、京王線車内の中吊り広告、全身にうっすら蛍光灯が仕込まれてるんじゃないかと思うくらい肌が光っているタレントの横に「激安!全身脱毛!」と書いてある、そのまた横に「なりたい自分になろう!」と、あなたの個性を尊重しますと同時に(あなたはこうならないといけません)という意味を含んだ言葉、とは一線を隠す切実さみたいなものがあって、私はちょっと気圧された。
 しばらく黙って、何を言おうか迷って。30〜40秒後くらいに。「好きにすればいいんじゃないの?」と私は言った。そして「まだ若いんだから」。それはほぼ一般論であり、ちょっと大らかな自由に生きることにも理解のある親戚のおばさんみたいな感じで、好きにするったって限度があるし、あんたが今から将棋で女流名人になったり、プロゴルファーになって北米ツアーで日本人初の快挙を成し遂げたり、100年に1度の天才ピアニストとして世界的有名指揮者に見染められて不倫がスクープされる、みたいなことは金銭的にも時間的にも才能的にも難しいので、まぁある程度常識の範囲内で、例えばカルチャーセンターの絵画講座に通うとか、市民劇団に入ってみるとか、同年代で集まってチャットモンチーのコピーバンドを組むぐらいにしときなよという意味で言った。し、彼女もそう受け取った。
 彼女は私を睨みつけながら、「何にもわかってない!」と怒鳴った。怒りの目には、涙が浮かんでいた。顔は紅潮していた。彼女は自分の部屋にいって、奥から何か殴ったような(実際に殴ったのかもしれない)ゴッっという鈍い音が聞こえると、ガラガラとキャリーケースを転がす音がして、ドアが大袈裟にギイっと音を立て、バンッとしまる音がした。私は玄関の方を見ずに、顔を斜め上に向け、ずっと天井の線を目でなぞっていた。数十秒後、思い立って出涸らしになった紅茶のTバックの入ったコップに再度お湯を注ぎ込んだ。ポットから。薄茶色の液体。フローリングをよく見ると長い抜け毛が散らばるように数本落ちていた。明らかに彼女の髪の毛だ。私は、椅子の下の一本を拾い上げて指先をこするように髪の毛をくるくるさせながら眺めた。彼女は、もう帰ってこなかった。

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