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呪いを解く装い、エキセントリック・バレリーナ

せっかくの連休中なので、少しだけ夜更かしして、昔の話をしてみたい。

私は子どもの頃、ピアノのレッスンに通っていた。
「ピアノが習いたかったけど、習わせてもらえなかったから、娘には習わせてあげたい」と、母はよく言っていた。私自身は、クラシックバレエか空手を習いたかったのだが(この頃からキャラの振り幅が凄い)、「気の強い従姉妹のEちゃんですら、先生が厳しくて毎回、泣いて帰ってきてたよ。バレエなんて、あなたには無理だよ。ピアノは将来、きっと役に立つから。」と言われ、叶わなかった。よくある親の心配や期待が、軽い呪いに変質した瞬間だった。

私はピアノを習い続けたが、練習はひたすら面倒で、呆れるくらい上達せず、レッスンはサボりがち。先生が夜、うなされるほどだった。私は「自分には根気がなく、怠け者なんだな」とぼんやり思っていた。
大好きな本は、食事も睡眠も忘れて読み続け、しまいには歩きながら読む方法すら、編み出していたのに(危険なので、絶対マネしないで下さい)。
実際に無かったものは、根気より興味であり、私は興味がないものに対して、全然、努力が続かないようだ。(今もそうです)。
そのことに早めに気づいていればよかった、と思うこともあるが、興味がないことをなけなしの根性でしぶしぶやると、本当に好きなこととの明らかな違いがわかってくるので、よかったのかもしれない(無駄に前向き)。
文章は、呼吸するのと同じくらい自然に書けるので、目が疲れ肩は凝るけれど幸せだ!(←やせ我慢)。上手いか下手かはまた、別の問題だが。

成人して親元を離れた私は、ふと思いついて「大人のバレエ教室」に通うことにした。まず初めに、ずっと履いてみたかったバレエシューズを買い求めた。憧れのバレエシューズを履き、フリルスカートにレギンスで、バーレッスンしたり、鏡の前でポーズをとり、それはもう、いたく満足した!
可憐なチュチュもいいが、フリルやタイツを纏った優雅なプリンスチャーミング(王子様)も好きだった。
「なりたい」を服装で体現していった私、「似合うか似合わないか」より「なりたい自分に近づいた喜び」が優った。
「なりたい」を服装から攻略してしまうのは、案外有効だな、と感じた。

大人のバレエ教室での私は、
繊細で華奢なプリマドンナとは程遠く、白鳥や子鹿というより、ダチョウやヘラジカのように荒々しい、不器用なありさまで、大して長続きも上達もしなかったが、心が満たされたし、不思議と自信になった。小さな自分が「すごいすごい!」と喜んで、手を叩いてくれているような気持ちだった。
「できないと言われた、でもやってみたい」呪いが昇華された瞬間だったように思う。

バレエを始めた私の横で、夫はバイクに乗ることを親から反対されたと言い、免許を取って、夢を実現した。どうやら似たもの同士みたいだ。
やりたいことを始めるなら、早ければ早い方がよかっただろう。
でも、遅すぎることなんてない、やるなら今がいいと、私はいつも信じることにしている。
そして実家では、母が定年後、ようやくピアノを習い始めた

現実の世界で、最後に呪いを解くのは王子様じゃない、自分自身だ。自分でバレエを習わず、娘に夢を託していたら、呪いは解けずに継承されてしまうだろう(娘いないけどね)。夢は、我が子に託さない、子には子の夢があるだろうから。

呪いを解くために叶える夢は、大きくなくていい。
着たい服があるなら、「きっと似合わない」と思ってもまず着てみようと思う。
自問自答ファッション講座で、「私、ジャージが似合わないんですよ」と話したら「それは心がジャージになっていないからです!」とあきやさんが即答して、爆笑した。そう、心が伴っていれば似合うんだ。
その後、スポーツウェアの流行に乗ってみたい私は、アディダスがマリメッコとコラボしたジャージを買い、イカゲームに参加する意気込みで着こなした(ドラマ観てないが)。新しい自分に会えて、なかなか面白かった。

「私なんかがこんな素敵な服は…」と自己判断するのはやめてみよう、と思っている。
「私には似合わない」なんて、好きなものの前で怯む人が減ったら、とてもいい世の中になりそうだ。「似合うか似合わないかより、大事なことが人にはある」とそっと心で呟き、迷わず「いいね!」を押すつもり。

望めば、呪いはきっと解ける。跳ね返せる。
誰かの愛や果たせなかった夢や、叶わぬ願い。そういったものが時には、呪いになってしまう。何とも切ない。

次の旅に行ってきます✨またいい記事書きます。おもしろきこともなき世をおもしろく、が合言葉!