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銃声は何時間も続いた。身を縮め、小声で話し、気づかれないように隠れていた。

これは私の物語であり、私の故郷キブツ・ニル・イッツハクの物語である。

金曜日の夕方、2日前に海外から戻ってきたばかりの私は、「Bein Hakolot(声を通して)」という特別なイベントに参加するためにキブツ・ベエリに向かって車を走らせていた。その夜のイベントのテーマは「ベエリで過ごした子供時代」というものだった。

それは人々の絆を育む格別な時となった。さまざまな地域から集った参加者たちは、個人的な思い出話を共有したり、それに関連する歌を歌ったりした。その夜の参加者は300人を超え、パワフルで非日常的な雰囲気となった。イベントは万雷の拍手で幕を閉じ、私は有頂天となった。イベント終了後、2人の参加者からメッセージをもらったが、疲れ切っていたので、翌日に返信することにした。

土曜日の朝は、突然やってきた。

午前6時半、キブツ中にサイレンとロケットの騒音が鳴り響いた。私は両親と共にセーフルームに駆け込んだ。
午前7時10分、私は急いでトイレに行き、大きなボトルに水を入れてセーフルームに戻った。
午前9時、不穏な銃声が私たちの背筋を震わせた。

キブツのWhatsAppグループがひっきりなしに鳴った。次の最新情報が届くまでセーフルームから出ないように、と警告された。
近所に住む友人から連絡があり、「テロリストが娘の家に侵入した」と知らせてきた。窓の外からアラビア語が聞こえてきたという。この友人は私にとって家族同然で、彼女の娘は私たちの家からわずか10メートルほどのところに住んでいた。

WhatsAppの連絡から、テロリストが家々に押し入り、セーフルームに侵入しようとしているのだと推測した。セーフルームのドアには鍵がついていないので、どちらがドアの取っ手を操作できるかをめぐる戦いとなった。

WhatsApp上に、隣人たちからの返信がなくなるにつれ、一秒一秒が永遠のように長引き、彼らの安否が心配でたまらなくなった。銃声は何時間も続いた。私たちはセーフルームに座り、外から見つからないように声を潜めて話し合った。テレビを消し、電話にも出なかった。突然、両親の命が私の手の中にあるという事実を思い知らされた。

なぜ、テロリストが私たちの家を見逃したのかはわからない。幸運に感謝している。

午後2時、別の銃声が響いた。それはついに、イスラエル国防軍のものだった。私は徐々に息を整え始めた。銃声は次第に小さくなり、私たちは不安になった。一体どちらが勝利したのか分からず、セーフルームを出たら何が待っているのか、不安は募るばかりだった。私は「今は安全だけど、一度ここから出てしまったらそれは一変してしまうでしょう」と両親に警告した。

後で知ったことだが、軍がキブツに侵入したテロリストを制圧するのに、3ラウンドの戦いがあったそうだ。30人ほどのテロリストがキブツをうろつき、中には自転車やオートバイに乗った子供もいたと聞いている。彼らはキブツの家々から物を盗み、また家々を破壊していった。

午後6時ごろ、軍は家々を調べて回り、各世帯の1人だけが食料品や水など物資を集め、それ以外の人はセーフルームに残るように、と通告してきた。両親と私は午後8時にこの知らせを受けとり、恐怖に襲われながらも一緒に外に出ることにした。排尿用に空のペットボトルと、食料と少量の水を集め、セーフルームに戻った。
午後8時10分、その日最初の食事をとった。

午後9時半になると、軍は要塞化した数軒の家に、キブツの全住民を集めた。そこには80人の老若男女がおり、犬を連れた者もいた。その夜、私はヨガマットの上に母と2匹の子犬と横たわり、2時間しか眠れなかった。父は、赤ちゃんを着替えさせるための台の上で寝ていた。

私が事態の深刻さに気づいたのは、行方不明者の情報を耳にした時だった。ある家族全員が行方不明で、キブツの警備隊員6人も行方不明(そのうちの1人は親しい友人だった)、そしてキブツの兵士1人も姿を消していた。

翌日の日曜日が明けると、混沌と静寂と恐怖で空気が重くなった。食欲は減退し、ジャガイモを少しかじっただけだった。キブツの家族や友人の支えが、かけがえのない力となった。その後、キブツの警備隊員2人が遺体で発見されたという悲惨な知らせが入った。そのうち一人は、私の親友の兄だった。

午後9時半、軍は避難準備のため、1時間半だけ私たちを自宅に戻らせてくれた。ようやくシャワーを浴び、前日から染み付いていた尿の臭いを洗い流すことができた。

午後11時半、バスによる避難が始まった。その道のりはうんざりするほど時間がかかり、ベア・シェバでは4時間待たされた。

月曜日の午前9時、私たちはようやくエイラートにあるホテルに到着した。その時点まであまり寝ていなかったが、到着したとたん、私は倒れ込んだ。

その日のうちに、行方不明の兵士が遺体で発見されたという悲しい知らせが届いた。彼は、親しい友人の弟で、家族はすでに彼をキブツの墓地に埋葬していた。行方不明になっていた別のキブツメンバーもその日に遺体で発見され、葬儀は翌日に予定されていた。

友人や家族にどこにいるのかと聞かれても、「ホテルに避難している。私たちは生きていて、健康で、みんな無事だった」と返すことしかできなかった。何千もの衝撃的な瞬間があった。それらをまだ受け止めることさえできず、処理し切るにはほど遠い。

失われたものは計り知れない。私が共に働き、共に学び、共に学んだ仲間たち、そして「Bein Hakolot」に参加した人々やイベントのクルーたちにも影響を及ぼした。被害を数え上げればきりがない。

金曜日の夜、私はホテルで、即席の「Bein Hakolot」を開催することにした。

この経験を説明することはできない。深い痛み、悲しみ、恐怖、そして希望の瞬間があった。私たちの唯一の慰めは信仰にあった。

アイアラ M.

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