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ひどいパニック発作に襲われた私は、息も絶え絶えで、立ち上がれなかった

私たちの経験を再び組み立て書き記すのに、長い時間がかかった。それでも、多くの細かな出来事が、未だ欠けたままだ。それらは時折思い出されては、また記憶の彼方に消えてしまう。きっとそれが一番良いのかもしれない。

これは、私の実体験だ。

10月7日土曜日の午前6時半、私たちはレッドアラートのサイレンの音で、慌てて目を覚ました。休暇中、キブツに一緒に滞在していたバラクの母親と一緒に、セーフルームに駆け込んだ。子供たちはセーフルームで寝ていたが、バラクが音を立てながら素早くセーフルームのスチール窓を閉めたので、すぐに目を覚ました。ガヤは少し驚いていた。彼女は何も言わなかったが、彼女の瞳には戸惑いが見てとれた。ノアムは集まってきた大人たちを見て、元気よく立ち上がった。
私たちはなんとかセーフルームのドアを閉めた。私たちはガザ辺境地域に3年間も住んでいたので、こういう事態には慣れていた。しばらくすればすべてが元通りになり、また眠りにつくこともわかっていた。

しかし、今回はいつもとは違った。レッドアラートが鳴り、それは繰り返し繰り返し鳴り続けた。窓の向こう側、とても近くから、激しい銃声が聞こえてきた。バラクの母親は私たちを見て言った。「侵入されたのかしら?」私は、「その可能性はありません。絶対あり得ません」と言った。その瞬間、私はそう確信していたのだ。

数分が経ち、彼らの声、アラビア語を話す男たちの声が聞こえてきた。当然私には何もわからなかったが、アラビア語をよく理解するバラクは、私たちがトラブルの渦中にいることに気付いた。それは非常に深刻なトラブルだった。セーフルームに避難した私たちには、バラクの携帯電話だけが頼りだった。彼はすぐに親しい隣人たちに電話をかけ、家族にも「テロリストがいる」とメッセージを送った。同時に、キブツのWhatsAppグループを見ると、(テロリストが)近所の家々に侵入し、火をつけ、四方八方から銃を乱射しているというメッセージが届いていた。

バラクの母親はドアの取っ手を握りしめた。そのドアの鍵は壊れていたのだ。バラクは窓をもう一度閉め直したが、それらも鍵がかからなかった。私はというと、すっかり正気を失っていた。ひどいパニック発作が始まり、息もできず、立ち上がることさえできなかった。しかし、なんとか自分を取り戻し、すでに退屈と喉の渇きと空腹で暴れていたノアムをあやした。この時にはもう、子供たちは床に身を伏していた。もし神が許し、 万が一窓から発砲された場合に備えて、キャビネットの陰に子供たちを隠した。
しばらくして、停電が起きた。真っ暗で、携帯電話のバッテリーは13%までしか充電されていなかった。最後のバッテリーを使って私は親友にメールを送った。助けを呼んで欲しい、そして私たちは死ぬだろうと告げ、携帯の電源は切れた。

ついに、テロリストが家に入ってきた。銃声とアラビア語が聞こえ、大騒ぎになった。私はバラクの母親に、「どうかドアをしっかり閉めて!」と頼んだ。最後の最後に、神の摂理で、彼女はセーフルームのドアをロックすることに成功した。テロリストたちはドアを開けようとしたが、開けられなかった。私たちにとって幸運だったのは、彼らが粘らずに家を出て行ったことだった。

約8時間後、私たちはヘブライ語で 「誰かいませんか?」という声を聞いた。それが兵士たちの声だと確実に確かめてから、私たちはドアを開けた。ドアの外には4人の兵士が、銃をこちらに向けて立っていた。「今までどこにいたんですか!」と私たちは叫んだ。私たちはヒステリックに泣きながら、同時に心底安堵していた。兵士たちは家にテロリストが隠れていないかどうかを確かめ、私たちを安全な場所へと避難させてくれた。

今、私たちはエイラットに避難し、キブツ・ニリムの素晴らしいコミュニティーのみんなと一緒にいる。心の傷を癒すには長い時間がかかるだろうし、一生残るトラウマもあるだろう。しかし、私たちはより強く団結して、この事態から抜け出せると信じている。

我々は必ず勝利する。

ダニエル・C


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