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動物としての関係性

このnoteは、久しぶりに愛鳥の文鳥を放鳥して肩に鳥を感じつつ、いつお気に入りの白Tにフンをされるかなと思いながら書いています。

今日友達と遊んだ時に、契約済みの譲渡前の小型犬に会いにペットショップに行った。
生後4ヶ月くらいの男の子は、目に入るもの全てに興味津々で、口の中が痒くて仕方なくて、なんでも口に入れてみる元気な子だった。
膝に乗って、口を開けたまま顔に頭突きしてわたしの顔をべろべろに舐めてきて、私はそういう生き物と接したことがないからびっくりしながら鼻の穴までびしゃびしゃになった。
アイシャドウとか舐めて大丈夫なのかなって思いながら体重をかけられ慣れていない顔は耐えきれずに、のけぞって、そうすると急所であるところの顎とか喉とかを犬に晒すことになってなんか大丈夫かなって心配になる、不思議な感じだった。
そんな人間の急所なんて知識もない犬にとってはどうでもいい事を、人間が気にして気をつけている、こういう、未然に防げることを防ぐ心配をするタイプの気遣いとか優しさとかが私は面白くて好き。わかんないけど愛しむってこういう感じだろうなって思う。

文鳥に鼻の脇を噛まれるよりも幼い犬の甘噛みの牙は全然痛くなくて、でもびしゃびしゃになる量はとんでもなくて笑ってしまった。
文鳥も一応唾液(だと思う)はあって、わたしの顔の脇で首をぶんって振ってるときとかにたまに水分が散るのを感じる。私は結構その瞬間が好きで、この小さい生き物が確かに生きていて私に何かを浴びせているのがたまらなく愛おしくおもう。
でもなんか、犬のそれはレベルが違って、こんなにたくさんの体液をそんな…みたいな受け止めきれなさを感じた。というか犬全体に対してそんな無防備にするべきではありませんよ…みたいな気持ちが終始あった。普段警戒心の塊(の性格にしたのは私ですが)の小鳥と過ごしているからそう思うのかもしれない。

糞尿を含めて涙とか唾液とか、体液に対して無防備というのはなんだかすごいことだと思っていて、すごく親愛だよなと思う。
漫画のテンペストで、唾液を交換して遺伝子のやり取り的なのをするシーンが好きだったんだけど、相手のことを欲しいと思うことの一貫としての体液への興味みたいなのが多少ある。種別を超えた話と自分の人間同士の話を並列するのも変な話かもしれないけれども、綺麗か汚いかで言えば汚いに分類される分泌物全般を、容赦なく浴びせてく堂々とした感じの動物的なところが好き。
私は自分の動物的なところについてあんまり自分で受け止めきれていないから、誰か大事な人にはそれをさらけ出せるといいなと思っている部分がある。いや無意識にやってるのかもしれんけど。

文鳥がゲージに戻っていった。マイペースにゲージの入り口と中とをうろうろするのが可愛い。

まあ対人間の場合体液を受け止められても食事シーンの汚さでダメなことは多々あるし、私は相手を動物として受け止めるのはめちゃくちゃに苦手なんだよな。
文鳥の、見飽きたとも言える羽を膨らませてる様子は何度見ても愛おしいけど、まあ大体似た動作と言える背中をボリボリ掻くみたいな動作のことを愛おしいと思えるかと言われたらまだそういう境地は遠いと感じる。
生きているだけで愛おしいと思うみたいな構図を手に入れるのは子育てとかしないと難しいように思うし、逆に子育てをすることにより伴侶に対しては生きてるだけでは不足と感じることが多くなることが容易に想像できる。
大人に対しての愛おしさの難しさが大きすぎる。からこそ、大人として慈しまれることの想像もできなくて私は苦しいことが多い。
一体私はどんな無邪気な頭突きをしていて、どんなさらけ出しを受けているのか。


結局文鳥は途中で水っぽいフンをまあまあの打点からゲージの上から地面に向かって放って、しばらくはフンをしないだろうなという感じになりながらも最後は戻ってきて膝にフンをして去って行きました。ふきふき。