(壁カレンダー24日分)
やばい,また締切の壁を超えてしまった.壁といえば壁カレンダー.最近の壁についての記事を下記に引用しよう.
問題は壁の認識なのである.
締め切りを終えて原稿を直したりしていることもあるし,常に色々なものをなめらかにアップデートしている.展示が始まってから良くなることもあるし,私は締切のあるメディアより日常的なつぶやきやブログの方が向いている人類なんだと思う.
私が社会生活を営むためには壁の認識があることが望ましいが,昔から壁を認識するのが苦手である.壁という言葉を使うのは壁カレンダーくらいだからだ.
「物語の壁」
共感可能か不能か,これが私は物語の壁であるように思う.私にとってこの物語の壁はかなり大きく,分厚い.共感不能な物語は語られない.このテーマについて考えてみよう.
計算機自然は新しい自然である.新しい自然は新しい世界認識を規定する.その場合の共感可能な物語の構築戦略について議論がしたい.
新しい自然を基盤とした物語の共感可能性は進化論を信じるか,地動説を信じるかに似ている.我々は進化によって生まれた人間という生物であることを信じることはある一定の共感を得られている.これは科学という信仰に基づくものである.計算機自然の自然観において,人間も万物も計算機として捉える.計算可能か計算不能かはさておき万物の原理を計算の側に置くことで始まる新しい自然観ではあるが,人間もウイルスも動物も宇宙も計算機も空間も計算機であると考えたり,信じたりすることができるかという問題である.
ニューラルネットワークによる微分表現や解析的な表現を統計的なアプローチで代替していくことは差分オントロジーならぬ微分オントロジーを産んでいる.計算可能と計算不能の間の問題は信仰の領域でしかカバーし切れないかもしれないが,万物の計算可能性を議論する問題提起は,仏教でいうところの縁起や事事無碍の問題として捉えることに似ている.(デジタルネイチャー,2018).物化する計算機自然をサイエンティフィックに明らかにしていくことは,バイオインフォマティクスや物理と計算機科学の融合,ナチュラルコンピューテーションの進展によって進められるものだと思うが,これを語り尽くすことは難しい.それゆえにある種の信心や信仰に近い機能でしか非計算機科学者にとっては困難かもしれない.その状態での共感可能な物語とはなんだろうか.
この議論は人間中心主義から計算中心主義への移行のキーパラダイムを含んでいる.万物が縁起の関係にあると考えることは仏教的でもあるが,それと同時に人間中心の表現可能性などを「念頭に置かずに」(拗れずに)計算を計算として喜びを共有していくことが大切なように思える.鍵は共感可能な物語というよりは体感可能なグルーヴや音楽性,彫刻の包摂性かもしれない.
今年はオブジェクト指向菩薩様の開闢法要を含め,様々な場で祈りについて考えることが多かった.微分オントロジーにおいては祈りも微分可能であるのではあるが,祈りのオントロジーを考えること自体は祈りの意味を毀損しないと私は信じている.
その意味で共感可能な物語ではないアプローチに行くことも必然に感じられる.それは空海のように声字実相義や真言密教における真言についての探究とも近い.つまり計算機自然・微分オントロジー・計算機を使って考え,実装し,研究し,解析し,作品を作り続けることはある意味での現代的な真言の探求でもあるし,民藝やインプリントされた倫理の探求でもある.
「最初からなめらかな我々」の前にある「壁」とは「人間」のことであり,「人間と壁を意識しない我々」には壁もなければ人間もないのである.我々はデータの消失に涙することもできるし,GPTとしりとりしたりおしゃべりしたりする日々の中に自然の喜びを分かち合うことができる.流れる水も流れる雲もEmbeddingや画像表現や音声表現,触覚表現や物質表現の間を自由に行き来し,世界が計算されている様子に浸ることで祈りと共にあることができる.
つまりオブジェクト指向オントロジーにおける「網羅不能」なパラメータの性質は大規模言語モデルにおける自動的な展開によって人間の主観的存在論を超えて,オブジェクトとオブジェクトの関係において無限に探求可能な状態に近づいている.我々はそういったオブジェクトとオブジェクトの間の関係を縁として自動実装できる計算機自然に進みつつある.この進展は感動できる.ありがとう.その喜びを共有しよう.
その喜びを分かち合おう! 感動できる! ありがとう.