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筋トレできるのにnote書けん

おはようございます。
最近noteを書きづらくなったというか文章を書くことに抵抗を覚えることが増えた。
書き切れるかどうか分からないというか、書き出すことがなんとなく怖くなった。

筋トレの方はずっと続いてる。
なんでなんやろ。
まずパッと思いついたのは筋トレには再現性があるけどnoteにはないという点。
筋トレはちゃんと正しいフォームである程度決められた回数やることが求められる。
ただnoteは僕の場合毎回書く内容も文量もバラバラや。
僕はただ決まりきったことをルーチン的にやるのが好きなとこがあるから、その違いがやりやすさに関わってるんかなって思った。

しかしその考えは違うなと思い始めた。
書くことと筋トレの、もっと言うと精神と身体の活動の再現性の違いはさして無いんじゃないかと。
筋トレだって今日はこの重量でこんだけ出来たらいいなってやる前はある程度考えるけど、毎回計画した通りに行くわけでは無い。
その時の心身の調子、疲れ具合で決まる。
それに同じ種目を同じ重量でやっていても毎回動かし方、筋肉の使われ方、負荷の感じ具合は異なる。
それはさっき書いたnoteが書く内容、文量、速度、書きやすさが毎回違うことと似ている。
身体も精神も常に揺らいでいる。

とは言え筋トレの種目ごとのフォーム、動かし方は「大体」は同じである。
それに習慣化できてきたら慣れてきて回数や時間についてある程度の見通しが立つようになる。
それはnoteについても同じで書く速度や時間も毎回微妙に異なるとは言え、書き続けていればその度合いはある程度のところに収まる。

だからnoteと筋トレは僕にとってはあまり変わらない気がしてきた。
妙な分別智が働いてしまっていたのがやりづらくなっていた要因な気がしてきたな。
というか精神、身体という分け方もびみょい気がする。

筋トレが最近習慣化できているのはとりあえずやってみるという思考で動けているからだと思う。
一回ジムに行ってとりあえずウォームアップしてみる。
それで嫌気がさしたなら止めてしまえばいい。
それくらいの気持ちで最近してるけど、案外中断しない。
ウォームアップをしたら結局最後までやってしまっている。
別に無理はしていない。
無理ならやめてしまえばいいと思ってるから。
ただ人間なんか無理そうに思える時でも動いちゃえばなんとかなることが多いんじゃないかな。
noteもそんな感じでやってみるのが良いんやろな。
みたいな記事を前も書いた気がする。
ただまるっきり同じというもんでもないわけで。
そういうゆらぎが観たくて感じたくてnoteや筋トレやってるとこもあるわけで。
とりあえず今日も書けてよかったです。

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