見出し画像

向こうの世界 最終回

※無料で最後まで読めます(投げ銭制)

 真っ直ぐ家に帰るのはもったいない気がした。それに、こんなに早く家に帰ると妻に怒られる。だから途中の駅で降りて、ショッピングモールをうろついた。

 本屋、模型屋、携帯屋、駄菓子屋を回る。それでも時間が余ったのでコーヒーでも飲もうと思い、入ったことのないスターバックスの入口まで来る。だが入口のガラス越しに見える客や店員が皆とてもお洒落な人に見えてしまい、自分が入店すると浮いた存在になりはしないかと無意味な劣等感を抱いてしまう。結局、コーヒー一杯が三百円近くもするのはバカらしい、というのを入店しない理由として自分に言い聞かせ、素直にマクドナルドで百円のコーヒーを安心しながら飲んだ。コーヒーを飲み終わり駅へと向かう。子供に土産でも買って帰ってやりたいが、会社を早退して街をうろついていること自体が秘密なので買うわけにもいかない。

 自宅の最寄り駅で電車を降り、自宅へと向かって歩いた。夕日はもう少しで沈もうとしていた。歩きながら赤い夕日を見ていたら、今月初めのラベンダースナックの企画会議を思い出した。そういえばあの会議では、回覧した試食品が完売だった。おじさん達が拒否反応を示さなかったということは、意外と売れるのかもしれない。本当はパッケージなんてどうでもいい。ただ「いろいろ」が気に食わないだけだ。

 そう思ってはっと気付いた。仕事のことを考えるのは止めよう。明日になればまた向こうの世界へ行くんだ。向こうの世界のことは向こうの世界にいる間だけ考えればいい。僕は夕日を見ながら、朝の通勤電車の中と同じように、考えても仕方の無いことを考え始めた。ただ朝と違うのは、頭の中に溜まった雑音を消すという目的があることだ。

 昼間の太陽を直視すれば失明の危険もあるというのに、なぜ夕方の太陽は直視することができるのだろう。この真っ赤な太陽は、今この瞬間にでもどこかの国の大地を焦がし、多くの生物を死に追いやっているかもしれない。それなのに僕は今、この太陽を美しいと感じ、眺め続けることができる。

「なぜ夕日は直視することができるのか?」

 どうでもいいこと、いくら考えても答えなど出ないようなことを考え続ける。暴走のきっかけを与えられた左脳が無意味な概念を生み出し続け、今日一日のうちに溜まった頭の中の雑音にぶつける。短文や単語が沸騰する湯の泡のように激しく頭の中に出ては連鎖し、瞬間的な意味を成したかと思えばすぐに雑音と相殺される。黒い活字としてイメージされた言葉の余韻が頭の中を埋め尽くしてゆき、やがて黒一色となる。そのとき、静寂の世界が訪れる。

 目の前で起こる様々な出来事を、感情に波を作らずにやり過ごすことなど僕にはできない。頭の中を真っ黒に塗り潰したところで、明日の朝にはまた、容赦なく向こうの世界の雑音に満たされてしまう。

 先頭に展望席を持った箱根行きの白い特急列車が、線路沿いの道をぶつぶつ言いながら歩く僕をゆっくりと抜かして行く。きついカーブを速度を抑えて低い金属音を奏でながら走る特急列車は、まるで巨大なクジラが規則正しく一列に並んで泳いでいるかのように見える。真っ白な車体がビルの影から抜け出し、沈みかけの夕日に照らされて先頭から順に赤く染まってゆく。夕焼けのフィルターを通り抜け、再びビルの影に入った特急列車が先頭から順にまた元の色白の車体を取り戻してゆく。僕は頭の中を暴走させながらゆっくりと歩き、特急列車は直線でスピードを上げ、金属音の音階を上げながらあっという間に線路が作り出した遠近法の奥へと吸い込まれて行った。特急列車とすれ違った新宿行きの急行列車が品の無い騒音を立てて走り去ったとき、僕の頭の中からは一切の雑音が消え去っていた。

(了)


最後まで読んでいただきありがとうございました。この小説がよかったと思ったら投げ銭をお願いいたします。

ここから先は

12字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?