見出し画像

向こうの世界 第2回

 キリスト教徒のミサに強制的に参加させられた中世南アメリカの先住民のような気持ちで自分の席に戻ってきたら、谷川さんがA四サイズの紙を壁に一枚一枚丁寧に貼っていた。
 
 縦に六枚ずつの列が十列目に突入している。ところどころ、すでに貼ってある紙の上に少しずつずらして重ねても貼っているようなので、単純に計算して百枚はありそうだ。何かの資料か企画案のたたき台でも貼っているのかと思い目を凝らしてみたが、さすがに遠目にはよくわからない。
 
 灰色だった壁が細かい字の印刷された白い紙に覆われて蛍光灯の光を反射し、僕の席の二つ隣の島にある谷川さんの席の周りを明るく照らしている。
 
 谷川さんはビジネス誌やテレビの経済番組でも紹介されたことのある商品企画部のエースで、僕を含めた多くの後輩の目標でもある。
 
 僕がこの会社に就職したのも谷川さんがきっかけだった。僕が大学三年生のとき、たまたま見ていたテレビ番組で青りんご産業の商品開発の模様が紹介されており、企画担当者の代表として谷川さんと谷川さんの担当した商品が紹介されていた。そのとき僕は、地道な商品企画で自分の力を試すことができる会社に魅力を感じ、テレビで紹介されていたあの人のようになってみたいと思った。僕が入社してからも、谷川さんは奇抜でありながらも説得力のある商品プランを発案し続け、それらは確実に市場で受け入れられた。
 
 そんな谷川さんなら、少しくらい常軌を逸した行動をとっていても不思議では無い。僕の周りの席の人達も、資料を確認したり取引先と電話をしたりといった作業を続けながら、谷川さんの動きを横目で観察していた。谷川さんの横を通りがかった人は皆、壁に貼ってある紙と谷川さんとを交互に見ては去っていく。谷川さんに声をかける人は誰もいない。
 
 だが、とりあえず今の僕は、会議が長引いてしまったおかげでやることが山積している。谷川さんには後で事情を聞きに行くことにして、残っている仕事を片付けなければならない。
 
 釜焼きピザは無くなってしまったが今日は金曜だし疲れたから早く家に帰りたい。そうだ、土曜の夜は妻とセックスしよう、今夜あたりから肩を揉んだり足ツボマッサージなんかをして機嫌を取っておこう、そうすれば明日の夜には別の部位を揉めるはずだ。そう考えると少しテンションが上がった。
 
 まずは印刷会社から今朝あがってきたパッケージデザインのサンプル四点を机の上に並べた。だがいずれも立派な出来栄えで、どれが良いのかがわからない。唖然としたまま固まってしまったが締め切りまでにはまだ時間がある。来週月曜の僕はきっと冴え渡るインスピレーションでどれか一つを選ぶだろう、そう信じてサンプルを片付けた。
 
 そうだ、議事録を完成させよう。そう思って途中まで会議中に作った議事録のテキストファイルを開いたが、さっきの会議のことなど思い出すのも嫌だということに気が付きマウスを必要以上に高速連続クリックしてファイルを閉じた。発売日が確定したことを伝えようと印刷会社に電話をかけたら担当者が不在だったのでメールで伝えようと思ったが、先方に送る工程表を作り直さなければならないことを思い出して面倒臭くなって止めた。視界の隅では谷川さんが壁に紙を貼り続けている。
 
 もうダメだ、落ち着かないし何も片付かない。
 
「よし、聞いてくるか」

 僕は谷川さんに、直接事情を聞きに行くことにした。


 壁に紙を貼っている谷川さんに向かって歩く途中、すでに貼り終えた紙を確認したら目を疑った。疑ったがすぐに自分の目を信用してやり何とか理解しようと試みたが、やはり目から得られる情報だけでは理解することができなかったため、完全に理解することのできたもう一人の自分を出現させて「なるほどねぇ」などという台詞をあえて声に出し、無理やり理解しようと試みた。だが、昼過ぎから不毛な会議に参加して回転が鈍くなっている僕の頭では到底理解することなどできなかった。
 
 谷川さんは今日一日のうちに自分のパソコンで受信した大量のメールを、すべて印刷して壁に貼っていた。
 
 現在では多くの会社がそうであるように、青りんご産業においても業務上のやりとりのほとんどがパソコンのメールで行われる。電話はお互いの時間を奪うが、メールはお互いの都合のよい時間に用件を確認したり返答を考えたりすることができる。一度に大量の情報を複数の宛先に送ることもできるし、文書でのやりとりなので証拠も残せる。だから一日のうちに受信するメールは少なくとも五十通、多いときには百通を超えることも珍しくはない。
 
 もし三日も会社を休めば、復帰した日の午前中は数百通のメールの処理だけで終わる場合もある。僕のデスクにあるパソコンのメールソフトにも、入社以来の七年で溜まった約五万件のメールが蓄積されているが珍しいことではない。しかし、大事な用件を印刷してファイルに綴じたり壁に貼ったりすることはあっても、ここまで大量のメールを壁に並べて貼るというのは理解できない。
 
 いや待て。こうした電子メールやインターネットの分野というのは、天才が生み出した新たな価値観によって常に歴史が塗り替えられてきたと、前にNHKスペシャルで観たことがある。谷川さんほどの人だ、何かメールの新しい扱い方を生み出したに違いない。

「谷川さん、何やってるんですか?」

 そう聞くと谷川さんは一瞬だけ僕の顔を見て相手を確認し、ニヤリと笑ってまたすぐ壁の方に顔を戻してしまった。何をやっているのかをわかっていながら「何やってるんですか?」などと聞いてしまったが、だからといって「何でこんなことやってるんですか?」と改めて理由を聞くのも気が引ける。

 居場所を失ってしまった僕は、たまたま通りがかっただけで本当はトイレに行くのが目的だったんですよ、というふりをして通り過ぎた。しかしトイレの方向にはトイレしか無いので、しょうがないからそのまま本当にトイレに行き用を足した。妙な胸騒ぎのせいか、立って小をしているときに大がしたくなってしまったので、一度小を止めて肛門に力を込め、さっきの会議で泣きながら会社に対する自分の夢を語っていた広報部の課長の顔を思い浮かべた。そういえば以前、あの課長が駅の改札で知らないおばさんを怒鳴っているのを見たことがある。あれは何だったんだろう? あれ? あの人何て名前だったっけ? などとどうでもいいことを考えていたら大の欲望がうまく過ぎ去ってくれたので肛門の緊張を解き、小をすべて終えることができた。

 自分の席に戻ってからパソコンに向かい、谷川さんと同じプロジェクトに所属する、僕と同期の木村に急いでメールを送った。

-----------------------------------------------------------
《木村殿

お疲れ様です。坂本です。
何で谷川さんはメールを壁に貼ってんの?
以上、至急回答されたし。

坂本》
-----------------------------------------------------------

 木村のようにタバコを吸う組は、喫煙ルームが貴重な情報収集の場となるらしい。入社以来、愛煙家である木村の情報収集能力には凄まじいものがあった。

 木村と僕の直属の上司である商品企画部の大木部長がまだ営業部にいた頃、町山常務の承認する接待費を私用に使いまくっていることを財務部の人間から聞き出し、匿名で密告して大木部長を懲戒処分へと追い込んだのも、製造部の榎本部長が入れ込んでいた銀座の女が町山常務の課長時代からの愛人の娘だという情報を仕入れ、榎本に情報を売る代わりに製造工程の締め切りを商品企画部の希望通りに変えさせたのも木村だった。

 青りんごの本社ビルには各階に一つずつ、煙が外に漏れないように完全密閉された喫煙ルームがある。木村は得たい情報によって喫煙ルームを使い分けていた。営業部の情報が欲しければ二階へ行き、製造部の情報が欲しければ三階へといった具合に。考えてみれば、様々な部署に打ち合わせに行く機会の多い商品企画部の人間だからこそ、怪しまれずにできる技だった。
数分後、木村から返事が来た。

-----------------------------------------------------------
《坂本殿

お疲れ様です。会議大変だったみたいだね。
会議に常務を呼んだのは営業部の福山課長らしいよ。
彼、活躍してたでしょ?(笑)

さっき中西さんから聞いたんだけどさ、中西さんや谷川さんは「完熟活動」をしているんだよ。
各部のチーフクラスの人間が選抜されて、青りんごを発展させるための活動をすることになったんだって。
しかも外部のコンサルタント会社が入って指導するらしい。

で、その活動の名前が「完熟活動」なんだって。
メールを壁に貼るのもその一環で、今日一日に自分宛に来たメールを、夕方四時になったらすべて壁に貼りながら全部を読み返すらしいよ。

すると大事なメールの読み落としが防げるし、無駄なメールのやり取りにも気付けるんだってさ。
もしかしたら、凄い画期的な活動なのかもね。

それから、今朝中西さんが参加させられた完熟活動の説明会の場に、
人事部の教育課とかコンサルタント会社の人と一緒に町山常務がいたらしい。
常務の息がかかってるんだろうね。

異常

木村》
-----------------------------------------------------------

 なるほどそういうことか。外部のコンサルタント会社を入れて企業体質を改善するということであれば僕は大賛成だ。だが大量のメールを印刷して壁に貼るなどということを企業経営のプロであるコンサルタント会社が指示するだろうか。確かに「異常」事態にも見えるが、こんな活動が本当に役立つのであれば、きっとかなり画期的な手法に違いない。

 しかし町山常務の息がかかっているというところがひっかかる。社内では評判の悪い町山常務が社長になるためのイメージアップにクリーンな活動を始めたというシナリオなら充分考えられるからだ。

 いずれにせよ、今日から始めた活動の是非を僕には判断できない。こういう場合は否定も肯定もせず、沈黙を保って様子を見るのが得策だろう。プロの指導を受けているんだ、谷川さんだって何かしらの意義を感じ取っているからこそ黙って従っているのかもしれない。


 終業の五時半を知らせるチャイムが鳴った。

 谷川さんは印刷したメールを貼り終わり、自分の席に戻っていた。四時から貼り始めたということは、約一時間半もかけて壁に貼っていたということになる。僕は木村にメールを返信した。

-----------------------------------------------------------
《木村殿

いろいろと教えてくれてありがとう。
「完熟活動」ってのは要するに改善活動ってことだよね?
寒いネーミングだけど、コンサルタント会社の人が入ってるなんてずいぶん本格的だね。
まぁ俺もね、さすがに今日は「この会社大丈夫か?」って思ったよ。
でもそういうのって、潰れそうな会社がよくやってるよね。
青りんごみたいな平和な会社の場合、自衛隊の体験入隊にでも行った方がいいような気がするけどね。
しかし谷川さんもよく文句言わずにやるよね。
中西さんも同じことやってるのかね?

以上

坂本》
-----------------------------------------------------------

 この手の企業体質改善ネタは、よくテレビで取り上げられている。「名門復活」などと言って、潰れそうな老舗企業に若い新社長がやってきて斬新なアイデアで社内を改革し、一年で赤字を解消するとかいう類のやつだ。

 大抵の場合、古くからいる役員達は最初「俺は認めないよ」などと言っているが、会社が傾いたのはそういう役員に責任があるため、自分の子供よりも若い新社長に黙って従っていたりする。青りんご産業は経営こそ傾いていないが、直すべき箇所が数え切れないほどある会社だ。たまにはプロの指導を受けるのもいいことなのだろう。

 僕の飲み友達でもある製造部の中西さんは谷川さんの同期で、二年前までは僕達と同じ商品企画部にいた。当時は中西さんと谷川さんと木村と僕との四人でよく飲みに行ったものだった。中西さんも何か詳しいことを教えてくれるかもしれない。僕は中西さんにもメールを出してみた。

-----------------------------------------------------------
《製造部)中西殿

お疲れ様です。坂本です。
聞きましたよ。何か大変みたいですね。
谷川さんも訳わかんないことやらされてます。
中西さんはどんな感じですか?やっぱりメールを壁に一杯貼ってるんですか?

あ、コンサルタント会社の人が入ってるって聞きましたよ。
絶対に常務と癒着してますよね。
それはそうと、赤坂見附の駅近くに新しく焼鳥屋ができましたね。
今度企画の派遣の女子を連れて飲みに行きましょう。

以上

坂本》
-----------------------------------------------------------

 だいたいの事情はわかった。詳しい話は焼鳥屋で中西さんから聞くことにしよう。僕は今日の会議の議事録を嫌々ながらも完成させることにした。

 議事録は後々になって「ゆるがぬ証拠」となる。そもそもはこれを作るために四時間も我慢したのだ。パソコンの画面上でもう一度テキストファイルを開き、会議名、日時、場所、出席者、議題を確認。さらに僕が説明した企画案、製造工程、発売時期が正しいことを確認し、会議の結論を付け加えて保存。だが本文が七行で終わってしまった。大人が九人集まって四時間会議をした結果がたったの七行。仕方が無いので結論の前に経緯を説明するための文章を挿入し、議事録全体を三十行に膨らませた。

 できあがった議事録を関係者に配布してよいか内容の確認を取るため、議事録のテキストファイルをメールに添付して松本課長に送った。松本課長も「完熟」関係の事情を何か知っているらしく、会議から帰って来て谷川さんを見ても特に気にした様子はなかった。管理職しか知らない情報がメールでやり取りされていることは間違いないが、さすがに管理職に探りを入れるわけにはいかない。松本課長に議事録の確認メールを送るのと同時に、木村からさっきのメールの返事が来た。

-----------------------------------------------------------
《坂本殿

青りんごは完熟を目指さなければならんのです。
私達はいつまでも青いままではいかんのです。

と、まあそんな所だろうね。
確かにどんな成果が期待できる活動なのかはわからないけど、中西さんはメールを壁に貼るだなんて馬鹿げてるし、業務に支障を来たすから早速拒否しようと思ってるらしいよ。
谷川さんは特に何も言ってなかったな。
ほら、谷川さんって自信あるでしょ?
あの人優秀で怖いもの無いもんだから、ちょっと付き合ってやるかってノリでやってるのかもね。

ちなみに今壁に貼ってるメールは、明日始業前に全部剥がして捨てるんだって。
で、夕方四時になったらまた一日分を全部印刷して貼り出すと。
メールを一晩寝かせてどうすんだって感じだけど、谷川さんみたいな人にそんなことやらせてること自体、会社が安泰だって証明しているように俺には見えるな。

以上。もう帰るよ。

木村》
-----------------------------------------------------------

 谷川さんがコンサルタント会社の指示に黙って従っている以上、中西さんがメールの壁貼り活動を拒否すれば、必ず誰かがこう言うだろう。

「あの谷川くんだってやっているんだから、君もやったほうがいいんじゃないか?」

 すると、めったに鳴らない僕の席の電話が鳴った。はい坂本です、と言うやいなや受話器を当てた僕の顔の左半分を中西さんの声が硬直させた。

「おい坂本、お前ふざけんなよ、俺も谷川と同じように受信したメールを壁に貼ることになってるんだ。あんなメール、誰かに見られたらどうすんだ?」

 やっと聞き取れるくらいのささやくような声量だが、力のこもった口調だった。僕ははっとして目の前が真っ暗になり、頭頂部から汗が噴出し、超高速の立ちくらみが一秒間に数回起きたようだった。

「す、すいません、言われてみればそうでした」

「壁に貼るメールの枚数とサーバーで処理した件数とが一致するか、抜き打ちで調べられることになってるんだよ。だから受信したメールを壁に貼らないわけにはいかないんだ。とりあえずさっきのメールは上から他のメール貼って隠しておくから、人に見られちゃまずいメールはもう送るなよ」

 かなり怒っているようだったが、怒りの矛先は僕だけに向けられているわけでは無さそうだった。

「余計なことしてすいませんでした。中西さんも活動頑張ってください」

 僕がそう言った後、周りの人間がいなくなったのか、中西さんは元の口調に戻った。

「あ? 冗談じゃねえよ何なんだよこれ? 意味わかんねぇよ」

 中西さんの口調が元に戻ったので安心した。

「やっぱそうなんですか? プロのコンサルタントの指導なんだから何かしらの意味があるんじゃないかってちょっとは思ったんですけど」

「いや、無いと思うよ。だってメールを壁に貼ってどうすんだよ? そんなことするくらいなら、大事な用件はメールだけでは済まさずに電話一本入れるとか、そういう気配りをするようにした方がよっぽど効果があると思うぞ」

「それもそうですよね。でもコンサルタント会社の人はどうなんですか? 企業経営のプロを呼ぶなんて本格的ですよね? 町山常務が絡んでるところが怪しいですけど」

「何が企業経営のプロだよ。だってお前、いきなり「完熟活動」だぜ? しかも手始めにメールの壁貼りだろ? あのコンサルタント会社の奴、町山の子供の友達か何かだと思うぞ。だいたいコンサルタントなんて資格のある職業じゃないしな。どうせ会社からコンサルタントに支払われた報酬が町山の懐にでも入るんだろ」

「じゃあ何で谷川さんは文句一つ言わずに素直に従ってるんですかね?」

「あいつは自信家だからな。変な活動だと思いながらも付き合ってやってるんじゃないか?」

「木村も同じこと言ってました。谷川さんは自信があるから付き合ってやってるんじゃないかって」

「そうだろうな。あいつだからできるんだよそんなこと。ま、俺は無駄なことやらされるの嫌だから、こんな活動のメンバーからは外してもらうけどな。あと焼鳥屋の件だけどさ、しばらく忙しいから来週の金曜日あたりにしてくれ。あの店は俺も気になってたんだ。派遣の女子連れてくるなら高木ちゃん連れてこいよ」

 そう言うと中西さんは、今夜は製造ラインの最終チェックがあるからと言って電話を切った。

 高木ちゃんは僕の隣の席に座っている二十八歳の派遣社員の女の子で、中西さんのお気に入りだった。でも高木ちゃんは谷川さんのファンだった。そして高木ちゃんも中西さんも既婚者だった。高木ちゃんは既婚者だが、谷川さんを見る目は本当にファンとしての目なのだろう。だが同じく既婚者である中西さんが高木ちゃんを見る目は性欲の捌け口を捜し求めている目に違いない。既婚者の男が妻以外のかわいい子を見る目は常に性欲の捌け口を探している目だ。そしてそれは間違いなく男らしいことだ。

 中西さんは二年前に異動願いを出して自ら製造部へと異動した。そのとき中西さんは、谷川さんを見ているうちに自分の才能の無さに嫌気がさしたと言っていた。でも最近は、いくら谷川の作る商品の企画やデザインがよくても、 最後に製品化、量産化するのは製造の俺達だ、などと言うようになった。

 確かに、いくら設計図が立派でも腕のいい大工がいなければ家は建たない。僕には作戦を立てる役目と実行する役目のどちらが優れているかの評価などできないが、少なくとも他人には負けない得意分野があるということは評価されるべきことなのだと思う。だから僕からすれば谷川さんも中西さんも両方偉い。

 谷川さんが最近生み出したヒット商品は『丸ごとプルプルぶどう』という子供向けのおやつだった。本物のデラウェアが皮のまま特殊な製法で一辺四センチのピラミッド型の袋に八粒ほど入っている商品で、これは幼児の子供を持つ母親の間で大ヒットした。

 子供達は一粒ずつ皮を剥いて食べるという作業に熱中した。そして食べるのに一粒ずつ時間がかかるので一気に大量のぶどうを食べることも防げるし、皮を剥いている間は子供が静かでいてくれるので母親は助かる。そして何よりも保存が効く。子供を持つ親をターゲットにしたこの商品企画でも、谷川さんはぶどうをそのまま袋に入れて売ってしまえ、という当たり前のようで斬新なアイデアを出して周囲を驚かせた。そして中西さんは専門業者と協力してレトルト製法を利用したパッケージを開発し、材料となるぶどうの安定した供給を農家から確保し、利益が出るように量産体制を整えた。つまり谷川さんが生みの親で、中西さんが育ての親だと言える。

 中西さんは以前、お客さんが自分の作った商品を食べるときに楽しい時間を過ごしてくれることがモチベーション維持に繋がる、と言っていた。だが僕はそんなこと嘘だと思うしそれを聞いたときには吹き出してしまった。中西さんは「商品企画で結果を出せずに製造部へと異動した人」というレッテルと戦っている。誰かにそう言われたわけではなく、自分が周囲にそう思われていると、本人が勝手に思い込んでいる。それでも製造部に異動した今はそれなりに結果を残しているので、中西さんはもっと自信を持っていいと思う。

「俺がいないと商品企画部は困る。谷川だって俺を必要としている。商品企画部の連中は皆そう思っているはずだ」

 中西さんはそう信じ込むことで自分の存在価値を見出し、モチベーションを維持している。

 松本課長から議事録承認のメールが来た。僕は会議に出席していた全員に加え、商品企画部全員、製造部、営業部の全員を宛先にして「ゆるがぬ証拠」をメールに添付して送信した。印刷会社には工程の日付だけをメールで通知した。その他は残業してまでやるほどの仕事が残っていなかったので帰ることにした。

「お先に失礼します」

 と松本課長に言ったら、

「おう、お疲れさん」

 と笑顔が返ってきた。会社で一番大事なのはやはり笑顔だと思った。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?