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向こうの世界 第9回

 朝礼は毎週月曜日に行うのがしきたりだ。だから月曜が祝日で休みの場合は中止となる。代わりに火曜日に行われることはない。朝礼で大事なのはその内容ではなく、朝礼を月曜日に開くことなのだ。

 三連休明けの疲労と憂鬱をドラクエの仲間のように背後に従えながら出社すると、谷川さんが壁に九時の分のメールを貼っていた。メールの壁貼りなど、普通に考えて馬鹿らしい作業だ。だが谷川さんは相変わらず不平一つ言わずに機械となって貼っている。谷川さんは、会社の仕事なんて感情に波を作らずに淡々とこなせばいい、と言っていた。確かにそんな谷川さんのスタンスは精神的な負担を考えれば見習うべきことなのかもしれない。そんなこと、僕にもできるだろうか。

 自分の席に座ってパソコンの電源を入れ、朝のメールチェックを始めた。受信した四十三件のメールの内容を一つ一つ確認していたら、「開催通知」というタイトルのメールを見つけた。差出人は営業部の福山課長だ。嫌なことを思い出した。メールの中身を確認すると、早くも感情に波ができてしまった。

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商品企画部 松本課長、坂本殿

お疲れ様です。営業部の福山です。
先日、貴部製作のラベンダースナックのパッケージについて、営業部内で評価を行わせていただきました。
営業部員同士、お客様視点で意見を出し合った結果、再考していただきたい個所がいくつか見つかりました。
この時期に大変申し訳ないのですが、本日午後二時より六階第一会議室にて、緊急の商品検討会議を開催させていただきたいと思います。
ご都合のつかない場合は日を改めさせていただきますので、
その旨ご連絡をお願いいたします。

福山
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 メールを読み終わり、松本課長に詰め寄った。こんなメールに僕が返信して兎や角と言ったところで何も始まらない。管理職を通して商品企画部の意向を営業部に伝えてもらうしかない。

「おはようございます。営業の福山課長からメール来てると思うんですけど、ラベンダースナックのパッケージは現案通り行かせてもらいたいです。先週の月曜に承認得ているはずだし、発売まで二週間を切っているので今更修正できません」

 松本課長は笑顔だった。

「坂本の気持ちもわからなくはないよ。でも今日の午後に打ち合わせするって言ってるんだからとりあえず出席しようよ。言いたいことはその場で言えばいいじゃない」

 出た。「わからなくもない」だ。あんたわかってないだろ。

「でも、もしも修正入れることになったら出荷日に間に合いません。打ち合わせなんてしている場合じゃないんです」

 松本課長が困った顔をした。困っているのはこっちだ。何であんたが困った顔するんだ。

「じゃあ課長、大木部長から言ってもらいましょう。企画の部長から言えば営業部だっておとなしく従いますよ。部長は営業部出身だから顔だって利くだろうし」

 松本課長の顔が笑顔に戻った。

「営業部出身だからダメなんだよ坂本君。大木部長と福山課長は仲良しだよ。あの二人と町山常務を併せた三人でしょっちゅうゴルフ行ってるんだから」

 何だか膝の力が抜けた。立っているのがやっとだ。お前いっぺん頭ひっぱたいてやろうか?
 
 事前に関係者の承認は得た。工程も詰まっている。営業部には合理的な理由が無い。僕の言っていることは絶対に正しい。こんなとき、感情の波を作らず、はいわかりました、じゃあ午後二時に六階ですね、あそこは椅子が座りやすくていいですねラッキー、なんて言えればいいのだろうか。
 
 高木ちゃんがまだ出社していないので愚痴を言う相手がいない。とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着こうと思い、机の引き出しからコーヒー豆とペーパーフィルターを出し、ドリッパーにセットしてから給湯室へ行く。
 
 給湯室には九時の分のメールを貼り終えた谷川さんがコーヒーを淹れに来ていた。

「おはようございます谷川さん」

「おはよう。大変そうだね。パッケージ見直しだって?」

「え? 何で知ってるんですか?」

「福山課長のメール、宛先に俺も入ってたよ」

 谷川さんはコーヒー豆を入れたドリッパーに数回に分けてお湯を注いでいる。お湯の出る給湯器は一つしかない。僕は給湯室の壁にもたれかかりうな垂れながら、谷川さんがコーヒーを淹れ終わるのを待つ。

「二時から打ち合わせです。と言っても、一方的に勝手なこと言われるだけですけどね。谷川さんがこの前言っていたみたいに、感情に波を作らないように頑張りますよ」

 谷川さんはドリッパーに注いだお湯がカップへと落ちて行くのを見ている。

「坂本は営業部に誰か知り合いいないの?」

 僕も谷川さんのコーヒーカップの上に載せられたドリッパーを見つめながら答える。

「同期の奴ならいますよ」

 ドリッパーのコーヒーに注がれたお湯の表面は薄茶色のきめ細かな泡で覆われている。

「他部署と付き合うときはさ、その部署にいる知り合いをうまく使った方がいいよ。こっちがいくら正攻法でも、福山課長みたいな人がいたらうまく行くものも行かなくなるからね」

「でも、どうやって使うんですか?」

 谷川さんはさらにお湯を注ぐ。

「簡単だよ。今回はこの案で行きたいからそっちの課長に話を通しておいてって、根回ししておけばいいんだよ」

 言っていることはわかる。そんなこと僕だって考えたことはある。でも何でいちいちそんなことする必要があるのだろう。

「この会社ってそういうところありますよね。いつも思うんですけど、自分勝手な人がいるからって、何でそういう人に合わせてこっちが対策練らなきゃならないんですかね? 正しいことをやっている人間が、何で馬鹿を見なきゃならないんですかね?」

 谷川さんはお湯を注ぐのを止めた。

「坂本の言うところの「正しさ」って、一般的に見ればきっと正しいことなんだと思うよ。でもこの会社に限らず、大勢の人が集まる組織の中っていうのは、より多くの人にメリットのある方法が最も正しいとされるじゃない?」

「メリットですか?」

「そう。だから持ちつ持たれつっていうか、そのときそのときで相手の事情を汲まないとね。常に正論が通るようなら苦労しないよね」

「持ちつ持たれつって、営業に知り合いがいたところでそんなにメリットなんてあるもんですかね?」

 谷川さんはコーヒーフィルターをゴミ箱に捨て、ドリッパーを水洗いし始めた。

「いくらでもあるよ。例えばさ、製品化が締め切りに間に合いそうもないときなんかに、適当な案を挙げておくんだよ。それでその案に対して営業の課長に因縁付けてもらうんだ。そうすれば営業の課長が開発遅らせているように見えるだろ?」

 なるほどねえ、などと感心してしまう。バカみたいに走り回っている犬が悪いのか、それともバカ犬を野放しにしている方が悪いのか。いや、どちらも悪くはない。なぜならそれを皆で正しいこととしているのだから。それがこの世界をうまく回すために、この世界の人々が作り上げたルールなのだから。白でも黒でもなく灰色。皆が賛成すれば何でも正解になる。

「無感動になるのは自己防衛のために必要だけどさ、無抵抗になったら結果は出せないよ」

 谷川さんはハンカチで手を拭きながらそう言った。

「谷川さん」

「何?」

「何でカップの中身を見ずに、お湯を注ぐのを止めるタイミングがわかったんですか?」

 僕がそう言うと、谷川さんはコーヒーカップの上に載せたドリッパーを外した。コーヒーは適量だった。

「そんなの、毎日やってるからだよ」

 そう言うと、谷川さんは給湯室から出て行った。

 僕もコーヒーを淹れ、自席へと戻った。コーヒーを飲みながら同じグループのメンバーの企画書を読んだり、次の企画のための資料をインターネットで探したりしていたら、谷川さんがプリンターへと歩いて行くのが目に入った。十時の分のメールを壁に貼るようだ。三連休明けで寝坊をしたらしい高木ちゃんが出社してきた。「あ、谷川さんやってるね」などと言ったかと思ったら、ハートのポーチを持ってすぐにどこかへと行ってしまった。


 昼休みになり、フロアの照明が一斉に消された。僕は弁当を買いに外へ出た。天気はよかったが少し肌寒い秋の風が吹いていた。外はこんなにいい天気なのに、どうしてあんなに薄暗いフロアでうまくもない弁当を食べなければならないのか、もう不思議でも何でもなかった。

 軽トラックで毎日売りに来る弁当屋に並ぶと、列の二人前に同期の営業部の奴がいた。入社して以来あまり話したことがないので、今さら仲良くなる術がわからない。僕があいつの一つ前で並んでいて、僕の番で弁当が最後の一つ。そんなときあいつに弁当を譲ってやる。そうすれば仲良くなれるだろうか。いや、お気に入りの女の子と仲良くなるためならともかく、男が男にそんなことをされたら動機が不明なだけにもの凄く怪しい。僕は売れ残った「白身魚フライ弁当」を買った。白身魚って何の魚だよ。

 弁当を食べ終わり、トイレで歯を磨く。席に戻り、昼休みが終わるまでの間、暗い中でパソコンの液晶画面に顔を青白く照らされながらインターネットのニュースサイトを斜め読みする。

 すると何だか凄く時間がもったいないような気がしてきた。何もせずに時間を潰しているからではない。今から一時間後に始まる会議で無駄な時間を過ごさなければならないことがわかっているのに、今この瞬間のこんなにも余っている時間に、自分にできることが何も無いからだ。

「そうだ、帰っちまおう」

 そんな考えが、大きな解放感と共に心の底から沸き上がって来た。すでに承認されたはずの案に対して因縁付けたい奴らが勝手に開く会議だ。僕が出席しようがしまいが関係無いじゃないか。大体、課長も部長も営業の言いなりなのが悪いんだ。あんな会議、松本課長が一人で出ればいい。

 後はもう、自分にとって都合のよい考えしか浮かんでこない。フロアが暗い昼休みのうちに目立たないように帰っちまおう。高木ちゃんは寝ている。僕はこっそりと帰り支度をした。パソコンの電源を切る直前に松本課長にメールを書いた。

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松本課長

体調が優れないため、本日は午後半休させていただきます。
申し訳ありません。

坂本
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メールの送信ボタンを押してからすぐにパソコンの電源を切り、僕は会社を後にした。

つづく

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