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向こうの世界 第7回

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 もうすぐで昼休みが終わろうとしているとき、またしても薄暗いフロアの端から場違いな大声が聞こえてきた。隣の席で机に突っ伏して昼寝をしていた高木ちゃんが目を覚まし、眠そうなヤンキーのような目つきで会議室の方向を睨んだ。どうやら毎週金曜日は完熟活動の勉強会になったらしい。あと五分で昼休みが終わる。続々と完熟メンバーがやってきては大声で挨拶をする。

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 たて続けにやってくる。

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 中西さんがやってきた。

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 ヒゲの田村さんがやってきた。

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 凄い光景だ。

 しかしあの中の誰かが、将来は自分の上司になるかもしれない。そう考えると闇雲に批判や嘲笑をするわけにもいかない。

 昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、天井の蛍光灯が一斉に点いた。田丸が巨体を揺らしながら会議室へと入りドアを閉める。爆弾のスイッチが押される。

「よろしくお願いします!!!」

 一瞬の静寂の後の大合唱。爆弾の爆発。会議室の壁や天井が崩れ落ち、瓦礫の下敷きとなった完熟メンバーを置き去りにして逃げ出す田丸を思い浮かべながら、僕は自分の業務を始めた。

「あ、谷川さんがいなかった」

 視覚情報が無意識のうちに脳内で整理されたらしく、突然のくしゃみのようなタイミングで声に出してそう言ってしまった。高木ちゃんが「あ、そうですね」と反応した。そういえば金曜は出張だから店に直行するというメールをもらっていた。やはり何だかんだ言って完熟活動をすり抜けているようだ。次期社長候補が始めた改善活動をこうも毎週サボっていては、いくら谷川さんでもそのうち怒られるのではないだろうか。完熟活動の勉強会に出席している他のメンバーだって、会議や出張と重ならないように調整しているはずだ。谷川さんだけが業務を優先させてよい理由は無い。馬鹿らしいとは思うが、無い。


 終業の五時半のチャイムが鳴った。木村と高木ちゃんと僕との三人で社員通用口の前にいたら、中西さんがやって来た。

「お疲れ様です」

 僕が挨拶すると、中西さんは「お疲れ」と言って僕達三人を見て言った。

「あれ? 谷川は?」

「谷川さんは午後から出張なので現地集合です。店までは僕ら四人で行きます」

「なんだ出張かよ。あいつ完熟活動の勉強会に一度も出ないんだよな」

「先週は打ち合わせで今週は出張ですもんね」

 そう言いながら僕らは出発した。
 
 青りんごから赤坂見附の駅へと向かう途中、国道二四六に架かる歩道橋を渡る。ここは頭上に首都高が走っているため、真上と真下を重さ一トン以上の鉄の塊がガソリンを燃やしながら猛スピードで走り抜ける。この歩道橋を渡るたび、この狭い空間には時空の歪みを生み出すほどの膨大なエネルギーが充満しているのではないかと思う。飲みに行くからとテンションの上がった木村と高木ちゃんが、僕と中西さんの後ろを歩きながら大声でバカ話をしている。

「喫煙ルームの壁に分電盤があるんだけどさ、ブンデンバン! って口の周り気持ち良くない?」

「わかる! ブンデンバン! あははははは!」

「あとさ、「直談判!」は口の中がすっきりするよ」

「ジカダンパン! ほんとだ! あははははは!」

 すれ違う仕事帰りのサラリーマンが怪訝な顔をしながら睨んで行く。時空の歪みが日常に変化をもたらすとは限らない。歩道橋を半分以上渡ったところで、首都高とビルの輪郭とで構成された丸みの無い狭くて暗い夕暮れの空が見えてくる。白と黒と灰色の立体感の無いまだら模様の夕空は、目を凝らして見てもどれが空なのか雲なのかの判別ができない。歩道橋を渡りきり、階段を降りたところで白と黒のグラデーションを串刺しにする一筋の白い飛行機雲を発見した。灰色が空だ。白でも黒でもなく、灰色。

 「軍鶏肉」に着くと、四人掛けのテーブルの壁側のベンチ席に高木ちゃんと僕が座り、向かい合わせの椅子席に中西さんと木村が座った。五人で予約したのにこのテーブルしかないのか。僕の席からは入口の横に置いてある軍鶏の剥製が見えた。まずは焼鳥の盛り合わせと生ビールを頼み、お通しのオクラを食べながら一人ずつ「ブンデンバン」と言って笑っていたが、全員がジカダンパンを言い終えて少し間が空いた後に中西さんが僕に言った。

「そう言えば、営業の福山課長がラベンダースナックのパッケージにイチャモン付けてたぞ」

「え? 何でですか? だって確認依頼のメールだって出したし、何人かが意見くれたけど月曜日の時点で全員承認したことになってるじゃないですか」

「お前あのパッケージに特色使ってるだろ? その分単価が高くなるから営業が売りにくいって」

「特色使ってるからってそんなに単価変わりませんよ。明らかに因縁じゃないですか」

「あの人、営業部の自分が製品開発に口出しできるってことをアピールしたいんだろ」

「あーむかつく。しかも何で今頃。もうメールじゃラチ開かないから週明けに直接聞きに行きますよ」

「ま、そのへんうまくまとめるのも実力だからな。頑張れよ」

 何が実力だ。火のないところに煙を起こされて、それを鎮静化するだけの作業じゃないか。発売まであと二週間。今になって修正を加えれば発売予定日に間に合わない可能性がある。営業の課長ごときに振り回されてたまるか。僕は生ビールを飲み干し、高木ちゃんと一緒に二杯目を注文した。すると突然、高木ちゃんが酔っ払い特有の大声を出した。

「あ! 谷川さん! こっちでーす!」

 スーツ姿の谷川さんが現れた。
 
「お疲れ様でーす」と木村と僕。

「お疲れさん」と中西さん。

「お疲れ。俺はどこ座ればいい?」

 谷川さんがそう言うと、高木ちゃんが僕のお絞りと割り箸と空になったビールのジョッキとお通しのオクラと取り皿を目にも留まらぬ速さでぽんぽんぽんぽんと「お誕生日席」に置き、今まで僕が座っていた場所があっと言う間に谷川さんの席になった。僕は誰もいない隣のテーブル席から椅子を一つもらい、「お誕生日席」に座った。

つづく

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