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向こうの世界 第5回

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」

 金曜日の昼休み。今週もあと半日で終わるなぁなどと思いながら自席でヤフーのニュースを読んでいたら、経費節減のために照明の消された薄暗いフロアの端にある会議室の方から、場違いな大声が聞こえてきた。隣の席で机に突っ伏して昼寝をしていた高木ちゃんが目を覚まし、パソコンのディスプレイに照らされた色白の顔の額と頬に、真っ赤な昼寝の痕を付けたまま眠そうな目で会議室の方向を睨んだ。高木ちゃんだけでなく四階にいる誰もが、大声のする会議室の方に注目していた。
 
 そこへ中西さんが階段からフロアに入ってきて、会議室の入口のドアのところで立ち止まった。

「お疲れ様です! よろしくお願いします!」
 
 そう大声で挨拶をしてから、会議室へと入って行った。何の会議かと思い、僕はパソコンで会議室予約システムのサイトを開き、午後一時からの本社四階会議室の予約名を確認した。
 
『完熟活動勉強会』

 思った通りの予約名ではあったが、月曜日には常務に盾突いていた中西さんが、なぜ金曜日になったら他の完熟メンバー同様に大声で挨拶しているのかが理解できなかった。中西さんの後に続き、他のメンバーが「お疲れ様です! よろしくお願いします!」と相変わらず場違いな大声で挨拶しながら会議室へと入って行く。
 
 僕はまたしても木村が何か事情を知っているのではないかと思いメールを送ろうとしたが、いちいち面倒なのでメールではなく視線を送った。僕の視線に気付いた木村がニヤニヤしながら僕の席へとやってきた。眠そうにしていた高木ちゃんも僕らの輪に加わった。

「悪いね毎度」

「いえいえ坂本さん、いいネタ仕込んでますよ」

 昼食後の喫煙ルームから帰ってきて間もないのか、木村からはタバコの臭いがした。
 
「じゃあ一つお願いしますよ。とりあえず中西さんどうしちゃったの?」

 そう聞くと、木村は得意気に答えた。
 
「あれは榎本部長が説得したみたいよ。今後、管理職への昇級は完熟メンバーであることが条件になるって中西さんに説明したら、考え方を改めたんだって」

「え? そうなの? 中西さんは会社に魂売ってまで管理職になんてなりたいのか?」

「まあそう言うなよ。完熟メンバー経験者しか管理職にしないってのはもちろん町山の方針だろうし、町山が次期社長になることだってほぼ確定らしいんだからさ。この会社で生き残って行くためには、きっと中西さんの選択が正しいんだよ」

 へぇ、そんなもんかねぇ、中西さんはそういうタイプの人じゃないと思うけどなあ、などと話していたら、顔の下半分がヒゲで真っ黒に覆われたメンバーが会議室へと入っていった。
 
「お疲れ様です。よろしくお願いします」

 幅が五センチほどもあるペーズリー柄のサスペンダーをしたヒゲ面は、僕が生理的に受け付けないタイプの、喉の肉と肉の間から絞り出すような低い声で控えめな挨拶をした。控えめだが「僕はバカじゃないぞ。バカじゃないどころか本当はこんなくだらない所にいるような人間じゃないんだ。でも本当は自分がバカだってことは薄々気付いているんだ。だけど君達は気付くなよ。僕が素晴らしい人間だということにしておけよ」という周波数を含んだ声だ。根拠のないプライドを守るために嘘で固めた人生を生きる男。僕と木村は顔を見合わせた。口を開いたのも顔がニヤけたのも僕の方が早かった。
 
「た、田村さんがいた。え? あの人も完熟メンバーなの? うわ、終わってるな」

「そうそう、そうなんだよ。はっきり言ってああいう得体の知れない活動は業務の邪魔だし、管理職候補の話なんて最初は誰も知らなかったんだよね。だからチーフクラスの人間を集めるって言っても、部によってはどうでもいい使えない奴を選出したりしたみたいなんだよ」

「じゃあ今になって総務部は焦ってんじゃない?」

「だろうね。今さら人選間違えました、なんて町山に言えないもんな」

 ヒゲ面の田村は僕が入社した頃にはまだ商品企画部にいた。当時の田村は商品企画部に長年在籍していたのにも関わらず、お菓子の企画はしていなかった、というより、できていなかった。田村はアンパンマンやきかんしゃトーマスなどのおまけ付き商品ばかりを企画しており、それらの商品は発売当初は調子がいいが、売上げが落ちるとすぐにキャラクターのライセンス料が利益を削った。田村はロクな商品開発もせずに利益率の極端に低いおまけ付き製品ばかりを好き勝手に作り、赤字を膨らませ続けていたのにも関わらず自分を優秀な企画担当者だと思い込んで周りの忠告など一切聞く耳を持たなかった。僕はそんな田村のことを死ねばいいのにと思っていたのだが、気付いたら田村は商品企画部を追い出されて総務部へと異動させられていた。もう四年前の話だ。

「田村さんでも、完熟活動やってれば管理職になっちゃうのかね?」

 冗談のつもりで聞いた僕の質問に、木村が真顔で答えた。
 
「そうだ。巡り巡って田村さんが俺達の上司になることだってあり得る」

 すると高木ちゃんが笑いながら言った。
 
「あんなバカ、昇級試験受からないんじゃないですか?」

 それもそうだね、と三人で笑っていたら、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、天井の蛍光灯が一斉に点いた。田丸が巨体を揺らしながら会議室へ入りドアを閉めると、数秒もしないうちに「よろしくお願いします!」という完熟メンバー全員による大合唱が聞こえてきた。
 
 自席へと戻ってゆく木村を何気なく目で追っていたら、谷川さんがまだ自席に座っていることに気が付いた。完熟活動に素直に従事していたはずの谷川さんがなぜ会議室に行かないのだろうかと不思議に思っていると、谷川さんが立ち上がって会議室の方へと向かい、そのままフロアから出て行ってしまった

 僕は次に、従業員予定表管理システムのサイトで谷川さんの午後の予定をチェックした。『打ち合わせ』とだけ入力されていたのでクリックして詳細を見ると、場所が六階の高級な会議室であることと、他に町山常務と僕らの上司の大木部長が登録されていることがわかり、商品企画の最終チェックに関する打ち合わせであることが推測できた。なるほど、谷川さんは完熟メンバーの授業がある時間帯に重要な打ち合わせをぶつけてきたわけだ。谷川さんほどの人の企画であれば会社への影響力が大きい。「工程が詰まっているので早めに詳細を決めたい」とでも言えば、たとえ常務でも「商品企画は後にして完熟活動に行きなさい」とは言えないだろう。谷川さんにしかできない芸当だ。

 三時半を回った頃、会議室から「ありがとうございました!」と大合唱が聞こえてきた。それが突然だったので、またもやフロアの全員が驚いて会議室を見た。すると会議室のドアが開き、完熟メンバーがぞろぞろと出てきてそれぞれの職場へと戻っていった。そのぞろぞろの中に中西さんの姿がなかった。気になって遠くから会議室の中の様子を伺ってみると、中西さんと田丸が立ち話をしているのが見えた。

 会議室に近付いて聞き耳を立ててみると、どうやら中西さんが会社の未来について熱く語っているということがわかった。自分は青りんごをこういう会社にしたい、だからそのためには今こういうことが必要だと思う、あなたはどう思うか? というようなことを言っている。田丸はこのような場面には慣れているらしく「君が思うように動くのが一番だよ。まだ誰もやっていないことなんだから正解なんてないんだ。でも誰かがムーブメントを起こさないと組織は変わらないんだよ。革新を可能にするのは君のような本気度の高い人間なんだよ」などという臭いセリフを吐いていたが、中西さんは田丸のそんな励ましに泣きそうなほど感動していた。

 中西さんは良くも悪くも「クソ」が付くほど真面目なところがある。飲み屋で中西さんに仕事の話でもしようものなら、たとえこちらがただ愚痴を言いたいだけの軽いノリであっても、最後は中西さんの中西スイッチがオンとなって熱い中西劇場が始まる。それはほとんどの場合は面倒臭いのだが、こちらが仕事で失敗して落ち込んでいるときなどには渇を入れてもらうためにわざわざ中西劇場を観に行くこともある。中西さんは完熟メンバーとしての中西スイッチが入ったのに違いない。一度やると決めたら突っ走る男だ。やはりこの人には管理職候補などという話は関係無いのだろう。中西さんは熱く語りながら、田丸と一緒に階段の方へ行ってしまった。

 僕が企画したラベンダー風味のスナック菓子は、そのまま『ラベンダースナック』という名前になった。名前を決めたのは谷川さんだ。余計な飾り付けをするよりも、商品の内容が直感でわかるほうがよいというのがこのネーミングの根拠だった。そのあまりの単純さに適当に決めたかのような印象を受けてしまったが、僕の案はどれもしっくり来なかったので素直に谷川さんの案に従うことにした。ラベンダースナックのパッケージデザインはいよいよ今日中に決めなければならなかった。僕は先週の金曜日に引き出しに仕舞ったままのパッケージデザインのサンプル四点を一週間ぶりに机の上に並べた。明らかに一つだけ『ラベンダースナック』という名前にピッタリのデザインがあった。名前が決まったおかげでイメージが明確になったのだろう。こういうときの直感には自信がある、パッケージデザインはこれで決まりだ。

 すると高木ちゃんに隣の席から「会議室覗いてましたよね? どうでした?」と聞かれた。僕は今見聞きしてきたままのことを話し、「中西さんて真面目だよね。やっぱりああいう人が一人はいないとダメだよね」と言ったら、高木ちゃんは不満そうな顔をして「そうかしら?」と返してきた。

「何で? ああいう真面目な人が一人いるといないとではずいぶん違うと思うけど?」

「何が違うんですか?」

「やっぱ俺や木村みたいないい加減な連中ばかりじゃ組織はダメになるじゃない? 中西さんみたいな真面目な人がいると、最後はこの人が締めてくれるっていう安心感があるじゃん」

 いい加減な連中、とはもちろん謙遜だ。僕らはまだ商品企画部を追い出されていない。だが中西さんのような真面目さは持っていない。それは高木ちゃんも同じだ。

「わたし思うんですけど、中西さんみたいな人っていうのは「真面目」なんじゃなくて、「不真面目ではない」っていうだけだと思うんです」

「どういうこと? 不真面目ではない人は真面目な人なんじゃないの?」

「違いますよ。意思を持って真面目で居続ける人と、不真面目にはなれないから真面目でいるしかない人っていうのは全く違うんです」

 高木ちゃんが何やら理屈をこね始めた。でも僕は中西さんが根っから真面目な人だということを知っている。それは理屈ではなく、本能的に真面目な部分を持っている者にしか共有できない感覚なのかもしれない。君にはわからないんだよ、と言いたかったが、高木ちゃんの中西さんへの誤解も解きたかった。

「よくわからないんだけど、不真面目ではないってことは確かだよね。真面目だってだけじゃダメなわけ?」

「私、ただ真面目でいればいいっていう考えが嫌いなんです。真面目は真面目でも、自我のある真面目じゃないなら不真面目の方がマシなんじゃないかって思うんです」

「自我ねえ。でも中西さん、この前なんて常務に直接楯突いてたじゃない? あんなの自我があって意思が強い人にしかできないことだと思うよ?」

「確かに意思が強くないと行動は起こせないとは思うんですけど、でも中西さんはメールの壁貼りをやらない理由を常務に説明することができなかったし、代わりに私はこれをやりますっていう提案をしたりしたわけじゃないですよね?」

「してないね。もっとマシなことやらせてくれってことは言ってたけど」

「結局は受身なんですよね。あの活動に対して最初は疑問を持ってたみたいですけど、自我が無いもんだから常務にも部長にも言いくるめられちゃうし、一週間も経たないうちにコロッと寝返って大声で挨拶しちゃったりするんですよ」

 確かに高木ちゃんの言う通り、傍から見れば鮮やかにコロッと言いくるめられたようにも見える。高木ちゃんがそう思うのも無理は無い。だが高木ちゃんは中西さんのことをよく知らないだけだ。僕は中西さんを擁護した。

「いや、中西さんは活動の目的を詳しく説明されて納得しただけなんだよ。あの人結構突っ走るタイプだから、何ていうか、会社のための活動に熱中したいだけなんじゃないかな。だから、さっき木村が管理職候補の話をしてたけど、中西さんは管理職なんて目指してないと思うよ」

「だったら尚更じゃないですか。管理職になるっていう目的があって泥臭く態度を変える方がよっぽどマシだと思いますよ。単に与えられた作業に熱中してるだけな人って果たして偉いんですかね? 明確な目標に対して自我を持って真面目でいる人って、必ず他人とは違うことをやり始めると思うんです。それって、不真面目と評価されてもいいから我流の道を突き進むってことにも似ていると思うんですけど、そういう人じゃないと成果って出せないんじゃないかと思うんです。私、成果の出せない人が、作業に対する真面目さで評価されようとしている姿っていうのが大嫌いなんです」

 なるほど。高木ちゃんの言ってることもわからなくはない。それにわざわざ商品企画部を選んで応募して来る派遣社員がそういう考えを持っていても不思議ではない。何も無いゼロの状態からモノを作り出すような、いわゆるクリエイティヴな仕事にこそ価値を感じるのだろう。でも僕だって、「会社で仕事をする上での確固たる意思」つまりは「自我」なんてものは持ち合わせていないし、目の前の与えられた仕事をこなすだけで精一杯だ。高木ちゃんだって他人のことを言えるような仕事はしていない。確かに企画の仕事は中西さんには向いていなかったのかもしれない。だが中西さんのように、与えられた作業を忠実にこなし続けるというのもまた一つのスキルだ。それができない人だっている。世の中はさまざまな人がそれぞれの得意分野を生かしながら保たれているのだと僕は信じたい。

 じゃあ君にはいったいどんな自我があって何ができると言うんだ、と高木ちゃんに言ってやりたかったがもちろん止めた。それを言えばこの子との雰囲気が悪くなり、どこで何を言われるかわかったものじゃない。もうこんな話はやめよう。

「高木ちゃんは政治家になれるよ。可愛いし頭いいし、自分の考えもしっかり持ってるしさ。ところでお願いなんだけど、ここに四つあるパッケージ案のうち、一番いいと思うのはどれか見てくれない?」

 高木ちゃんは椅子に座ったまま僕の席に身を乗り出し、僕がさっき「これだ」と思ったパッケージを指し示した。やはり決まりだ。

「じゃあこれにしよう。俺には全部よく見えちゃうんだよね」

「もう、自我を持ってくださいよ坂本さん」

 高木ちゃんが笑った。この子との会話は最後に必ずこの子が笑うようになっている。

 今日は駅前にできた焼鳥屋に行く約束を中西さんとしている。中西さんには高木ちゃんを誘うように頼まれているが、こんな会話をした後に誘うのは気が引ける。高木ちゃんにいつ焼鳥屋の話を切り出そうかと悩んでいたら、中西さんからキャンセルのメールが来た。完熟活動が実作業に影響を及ぼし、今日は夜中まで残業になってしまう、それなのに今から、今日受信した電子メールを全部印刷して壁に貼らなければならない、だがこれは青りんごにとってとても大事なことなのだ、という内容だった。どこまでが本気なのかはわからないが、意外と中西さんは全部本気なのかもしれない。打ち合わせから帰ってきた谷川さんも、プリンターから大量の印刷物を持ち出している。

 焼鳥屋には来週の金曜日に行くことになった。焼鳥屋の店名を知らないことに気が付いたので帰りに確認しに行ったら「炭火焼鳥 軍鶏肉」だった。すごい名前だ。

つづく

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