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「育ちの悪い人」だけが知っていること

 花の蕾がほころび始めた頃、私は私の出自について差別的な発言を受けた。「育ちが悪い」のに、ごく普通の出で立ちをしているのが不味かったらしい。記憶する限りでは成人してから初めてのことで、年齢相応の経験を積み、日々襞を折るように厚みを増してきた私自身の総体を、根本から薙ぎ倒すほどの衝撃があった。

 自身に差別や偏見に晒されやすい属性があるのは、物心ついた頃から自覚していた。「属性」とは家族構成に関することで、自分たちは至極真っ当だと思いこんでいる親戚筋から攻撃されたり憂いたりされるのはもとより、学校教師や習い事の講師などに無邪気に話そうものなら、普段は私の存在を快く思っていなかったであろう人も、目をらんらんと輝かせて詳細を聞き出そうと躍起になった。

 こうした体験を重ねるうちに、家族について語るのは良くないことだと悟り、口を噤むようになった。今でも「ご家族は」などと尋ねられると、無駄な思慮を生み出したくない場面では明言を避けており、なおも家族の話題が続くようなら嘘も交えて回答している。

 とはいえ、同様の「属性」の持ち主は世間にあまねく存在しているのが実情である。この程度のことでは週刊文春だって眉一つ動かさないはずだ。誰にも責任を問えないのだから、糾弾のしようがない。それでも私たちが「育ちの悪い人」に分類される現実からは逃げようがなく、似たような状況下でさも何の問題もないかのように振る舞っている人たちと、緩やかな連帯関係を結ぶこともあった。

 そんな私にも、真実を話して誠意を示さなくてはならない場面が訪れた。思い切った決断だった。結果は、このざまである。夜は眠れなかったし、何時間泣きっぱなしだったかわからない。


 涙で湿気った布団で横になりながら、会社の研修の一環で聴講した、古くから根深く残る差別(具体的名称は本旨に関わらないので、検索避けのため明記しない)についての講演を思い出した。講師はこの差別問題を専門とする研究者で、多くの当事者と接点を持っていた。講演のなかでは、ここ最近の話であると断りを入れたうえで結婚差別の事例が紹介された。

 ある男性と婚約していた女性が、男性側の親族からの身元調査に遭い、結婚に強く反対される。最終的に男性は親族の意向に従い、女性との結婚話を反故にして別れを告げる。女性は生きていくことに絶望し、自殺を図るが失敗。一命をとりとめた女性は、病室を訪ねてきた先輩の一言で我に返る。

「なんであんたが死ななきゃならないの?」

 この話を聞いたとき、「死のうとするほどのことだろうか」と私は思った。彼女を苦しめた差別問題は小学校の社会科の教科書に載っていた。不当なことであると教わって、その意識をみんなが共有しているものだと信じていた。偶然その男性一族が古臭い価値観を大切に守り伝える耄碌のクソどもであっただけで、世間の多くは違うのだから人生を諦める必要などない。第一、彼女には何の非の打ちどころもないじゃないか、と。

 今ならばわかる。実際に死のうと思った。

 彼女も私も、大事に培った人格が「●●の人であるからには、こういう人間に違いない」というレッテルで上書きされる経験をしたために、「この世に生を受けた瞬間から現在に至るまでの過程が、すべてにおいて無駄だったのではないか」と、絶望へ向かうための問いを立ててしまったのである。

 自分自身から引き剥がせない「属性」と向き合うのが苦しかったのではない。仮に引き剥がせば、叩いても埃ひとつ出ない、綺麗で幸福な普通の人として扱ってもらえるのだとしても、私がその選択をすることはないだろう。背負う問題の多寡に差はあっても、共に悩みながら活路を拓いてきた家族や友人の存在を否定するのは、何よりもつらい。どうにか生き残らなくてはならないと心に決めた。


 復活するきっかけを求めて、虚ろにスマートフォンで検索をかけていたとき、以前にも見かけたことのある以下の記事にたどり着いた。

 前半は善意に満ち満ちた生徒会室での一幕から、差別とはどういうことなのか、おそらくは若い人たちに考えを促す内容である。後半の記述は前半と比べて分かりにくい。けれども、これまで確かに見てきた、差別や偏見が底を這う世界のありようが明文化されていて、はっとした。

あなたはきっと今日も差別をしました。私たちの価値判断には逐一(ちくいち)差別がこびりついていて、それを引き剝(は)がすことはなかなかできません。あなたがどんなに仲良くしてる相手でも、好きな相手でも、息を吐くように差別しているのがデフォルトで、それを理解したとしてもなお、あなたはその人を孤独にし続けるんです。やさしくしたいなら、それくらいわかってやさしくしてください。

 残酷にも私たちは、自分自身を構成する様々な要素が、身近な人と比べて優れているのか劣っているのか、細かく計測しなくては存在価値を認めることができない。あなたが持っていて、私が持っていない物差しもある。自信がない人ほど項目別の評価に敏感になる。だからこそ、何にしても否定的な評価の発露には慎重になるべきだし、後天的に変えがたい要素を採点対象に加えて恣意的に平均点を下げる、つまり価値を落として相手の自己否定を促すのは、もってのほかだと思う。

あなたには、「優しい」世界にも差別があるということに気づいてほしいし、逆に「差別がある」にもかかわらず優しい世界があるという逆説的な世界とも出会ってほしいと思います。

 選択肢が狭まっても、私たちは楽しく生きることができる。本稿のタイトルの元ネタの書籍でタクシーの座席の上座の位置を知り、やんごとなき人のような振る舞いを身につけることもできる。それでいて他者の痛みにも多少は敏感でいられる。

 心身に捺しつけられた痛みをこらえながら、堂々と大通りを歩くことの何が「悪い」のだろう。伝わらない人にはどう頑張っても伝わらないのかもしれないが、私はこれから痛い思いをするかもしれない人たちを守りたいのでこの文章を書いた。

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