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孤独につける薬(金沢遠征記)

 保険適用の低用量ピルを処方してもらって、自分よりも明らかに若い患者を尻目に、清潔なクリニックを後にする。入口には一年ほど前から「新型コロナウイルス感染症対策のため、同伴の方の同席はご遠慮ください」の貼り紙がされていて、ここが未来ある女性のための医療機関であることをまざまざと思い知らされる。薬さえあれば日常生活に差し支えない程度の症状とはいえ、男性社会で壮年期を生き抜くうえでこの病気は重い足枷となる。降りられるものならこの戦いを降りたい。閉経なんて、案外あっという間かもしれないけれど。

 最近特に孤独を感じることが多くなった。職場に関係する人物が私の悪口を吹聴していると知ったときも、職場に情報共有する以外に誰にも相談ができなかった。悪口の一件は、直接それを聞かされた知人が憤りながら教えてくれた。私はその人が無批判に受け入れず、疑いをもって咀嚼してくれたことに感謝している。内容は具体性に乏しく、当の本人からすればくだらない与太話の類であったが、これを私についてよく知らない人にまで言いふらしていると想像すると気が重くなった。たとえば上述のような婦人科通いだって、狭い地域社会で悪口を仕立て上げる側からすれば格好の材料になりえる。それに、こんな不毛な話を第三者に打ち明けても「仕事辞めて東京に戻ってきなよ」と性急な解決策に導かれるだけだろうから、誰にも言わないことにした。みんな忙しいのだ。降りられるものならこの戦いを降りたい。

 だが、どんなに嘆いても戦いは降りられないので、少しでも苦しみを紛らわせなくてはならなかった。なにか仕事と無関係の用事をつくって有給を取るのがいいだろうと思い至ったところ、折しもツイッターで「大森靖子 自由字架ツアー」の金沢公演のチケットを追加販売するという告知を見かけた。私は金沢へ行ったことがなかった。特急の乗り継ぎで駅を降りたことはあっても、無数の鉄骨が聳える巨大なドームの先に何があるのかを知らなかった。大森さんが今年リリースした「Rude」も生で聴いてみたかったので、昼休みにイープラスでチケットを取った。

 高速道路の深夜割引を使うため、当日は仮眠のあと午前1時30分に家を出た。深夜の高速には不可解な運転をする自家用車がいないので、他の車に気を取られることなく、オートクルーズで快適に走行することができる(大型トラックや商用車から見れば自分も同じ穴の狢ではあるが)。走り慣れた上信越道を1時間半ほど運転したところで眠くなってしまい、休憩のためパーキングエリアへ入った。明け方まで眠るつもりでいたが、外気温が5度まで落ちていたので冷気が車内に入り込み、ろくな防寒具を積んでこなかったのもあって1時間経たずに目を覚ました。外に出ると、後方のトラックから低く唸る音が聞こえてくる。自動販売機でミル挽きコーヒーを買って誰もいないカウンター席で暖をとったあと、生き物のようなトラックの群れを横目に車へ戻り、再び出発した。

 北陸道に入ってからもしばらくは真っ暗な道が続き、上越や糸魚川の海岸線を望むことは叶わなかったが、魚津のあたりから空が薄明るくなってきた。街灯が煌めいて富山湾のシルエットが見えてくると、胸にほのかな感動がこみ上げてきた。これまでの人生で馴染みのなかった日本海が、すぐそこに広がる。更に西へ進むと急に重たい雲が出現して強い雨が降り始めた。道はどんどん内陸へ入っていき、美しい海辺の街は見えなくなった。

 砺波インターを降りて、ずっと前から訪れてみたかった「A-COOP なんとセフレ」なる名称のスケベマーケットを目指して国道を南下した。到着したのは朝7時前で、近くの在来線の駅には自転車を停める高校生の姿があった。「なんとセフレ」の向かいにあるローソンで朝食と飲み物を買い、風情ある市街地を抜けて山道へ入った。「金沢市」の看板が見えてからほどなく、茶色い大きな建物が見えた。車や自転車でそこへ向かう大勢の若い人たちとすれ違う。金沢大学だ、と気がついた。その通学風景はかつて通った学校と似ていて懐かしく感じた。

  坂を下って金沢の街中に出て、事前に調べておいたコインパーキングに車を入れた。公演会場である金沢21世紀美術館付近で一日過ごすつもりだったため、最大料金が安い駐車場にしたのだが、このあと一日中強い風雨に見舞われたので、結果的には作戦ミスとなった。午前9時30分から兼六園一帯の美術館と博物館を震えながら回って、昼は金沢21世紀美術館のレストランで20分ほど入店を待って高いランチを食した。表に「金沢20世紀カフェ」なるアウト寄りのセーフな名称の喫茶店が見えたが、先客が誰もいなかったので怖気づいて入店を諦めた。美術館内の企画展を鑑賞した後、鈴木大拙館で半分眠りながら著作を読みあさっているうちに夕方になってしまった。

 大森靖子さんの公演は18時30分から始まった。会場の「シアター21」は美術館の地下階にあって、美術館が19時に閉館すると地上階へ出られなくなります、とのアナウンスが響く。イベント案内のデジタルサイネージがWindowsのデスクトップ画面に切り替わったのを見届けて会場へ入った。内容には詳しく触れないが、大森さんの歌とアコースティックギター、sugarbeansさんのピアノ、そしてrikoさんの舞踊という小さな編成で、落ち着いて演奏とパフォーマンスに集中できる素敵な公演だった。コロナ禍でここ一年以上ライブへ行けず、私の中ではSNS上のゴシップや誹謗中傷に覆い隠されそうになっていた「本物」の姿を、ようやく実際に見ることができた。今年も大森靖子がいてくれて良かったと思った。終演後はしんと冷える夜の街に放り出され、余韻に浸る暇もなく車を回収して郊外のインターへと走り出した。MCに登場したヤバい喫茶屋さん(店名でググると五木寛之が通っていたとかで有名な店らしいことがわかる)の外観くらいは帰りに見ておけばよかったと後悔した。

 忙しない旅ではあったが、久しぶりに外の空気を吸ったような気がした一日だった。長距離の移動も遠くの他者とのリアルな関わりも、孤独を癒やすには有効な方法かもしれない。世の中をあまねく思いやるのは困難にしても、せめて私をまだ見限らずにいてくれる人たちに誠実でいられるだけの余裕は維持したい。心を殺すことはRudeだ。仕事が終わって一人になると「死にたい」と漏らさずにいられない日が続いているが、健康に生まれて十分な教育に恵まれた身体を、寿命が来るまではどうにか他者のために捧げていきたい。

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