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#574・京都市交響楽団 第688回定期演奏会(2024/4/13)

 京都市交響楽団の第688回定期演奏会を聴いてきた。指揮者はスペイン出身のペドロ・アルフテル。私ははじめて見る名前の人で、京響とは今回が初共演とのこと。前半は辻彩奈の独創によるプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、後半はリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲というプログラム。私は当日券を購入しての鑑賞。開演してみると座席は9割方埋まっている印象だった。

 プロコフィエフは私にはその魅力がもう一つよくわからない作曲家のひとり。今回のプログラムの曲もCDを1枚持っていて数回聴いたことがある程度。もう10年くらいは聴いていないのではないか。独奏者の辻氏も私は今回はじめて聴いた。私にはやや細身の音に聴こえたが、美しい音で安定感のある演奏。どちらかと言えば、自己主張の強い演奏家ではなさそうというのが私の印象。伴奏のオケの編成がちょっと変わっていて、打楽器群はあるがティンパニはなし。その代わりに、バス・ドラムの出番が多く、要所要所で地味に(?)活躍していた。

 京響のプロコフィエフと言えば、忘れられないのが当時常任指揮者だった広上淳一氏が振って、確かヨーロッパ公演にも持っていった、定期公演での交響曲第5番の演奏。あれは凄かった。

 アンコールで演奏されたのは、私ははじめて聴く曲で、何だかスコット・ジョプリンとかのラグタイムっぽい曲だなあと思っていたら、終演後のロビーに、アンコール曲は「スコット・ウィーラー:アイソレーション・ラグ 〜ギル・シャハムのために」と掲示されていた。なるほど。ソリストは、生き生きと楽しそうに弾いていて、聴いていても、ちょっと洒落た(曲の途中で場内にクスッとした笑いが起きた)親しみやすい愉しい曲だった。

 配布されているプログラムのメンバー表を見ると、ホルン奏者の客演がやたらに多い。プログラムでアルプス交響曲の楽器編成を確かめてみると、バンダにホルンが9本!(さらにトランペットとトロンボーンが2本ずつ。)アルプス交響曲を実演で聴くのは今回がはじめてで、ディスクでは散々慣れ親しんでいる曲だが、そもそもバンダありとは意識していなかった。どこにバンダが演奏する部分があったっけ?と思ったくらいだが、演奏が進み、出番の直前になって、「ああ、あそこか!」とやっと気がついた(笑) 総勢13名のバンダ部隊は、ポディウム席の後ろに一列にずらりと並び、出番にはスポットライトが当たる演出で視覚的に楽しめた(出番が終わると静々と退場していく姿も楽しめた)。

 ディスクで録音を聞くだけではなかなかわからないこうした“発見”も実演を聴きに行く楽しみの一つである。もう一つ例を挙げれば、今回の演奏ではウィンドマシーンを担当していたのは女性奏者だったが、全身を使って力一杯に回しているように見えるその姿は、なかなか大変そうだった。これも視覚抜きで音楽を聴いているだけではわからなかったことだ。

 編成の大きな曲だけあって、舞台の上は演奏者でいっぱい。客演奏者が相当数入っているとはいえ、好調が続く京響だけあって、技術的にはまったく危なげない。ただ、前回の定期演奏会のように、広上氏が振った時にしばしば感じられる響きの凝集性は、今回はあまり感じられない。それは指揮者の違いなのか、曲の違いなのか、客演奏者が多いからか? 長身痩躯のアルフテル氏の指揮ぶりはエレガントで安定したもの。もう少し音楽の隈取りが濃い方が私にはより楽しめる気がしたが、それは好みの違いというものだろう。尖ったところなく滑らかに音楽が進行していくのは、アルフテル氏の美質だろうか。

 京都コンサートホールはそれほど大きなホールではないこともあってか、この大編成の総奏の場面では、弦の響きが飽和して聞こえる箇所が時々あったことは惜しまれる。ただ、これは聴いた席の位置によるのかも知れず(今回の私の座席は1階席の後方右隅の方)、ホール中央なら問題はなかったのかもしれない。この曲には美しい場面がいくつもあるが、実演で聞くと音楽の密度がやや薄く感じられる部分がところどころあることが、私としては今回の発見。それにしても、本曲の終結部(最後の3分間くらい)は素晴らしく美しくて感動的だ。人生そのものの暗喩にも聞こえる曲だが、夜の闇へと輪郭を失って溶けていくような音楽の終わり方は、マーラーの第九交響曲とはまた違ったやり方で、生の終わりを暗示するもので、深く心を揺り動かされる。

 今日の演奏では、最後の音が消えた後も、指揮者が完全に手を下ろし切り、緊張を解いてコンサートマスターに顔を向けるまで、10〜15秒間くらい聴衆も静寂を維持していたのが素晴らしい(いつもこうであってほしい)。音が消えた後の余韻も十分に味わうことができて、とても満足できる演奏会だった。