見出し画像

「ブス!」とか「ハゲ!」とか言ってもいいし。

価値観をアップデート?なんすかそれ。

最近とても思うことがあったので、書くことにする。
「人を傷つけない笑い」という言葉を最近になってよく見かけるようになった。「人を傷つけない笑い」が素晴らしかったとしても、人を傷つけないからと言って面白いとは限らないし、反対に、人を傷つけなくては生まれない笑いとは何ぞや、なんてことを考えていると頭がモヤモヤとしてきた。

価値観をアップデートする。みたいなことをたまに言う人がいるのだけど、意味が分からない。時代に合わせる、みたいな考えは金を稼いだりする時に使う頭であって、
「人を傷つける笑いは古い」とか、おどれはファッションの話をしているのかって感じだ。
間違っていたのであれば、当然の所に戻るべきだと思う。

俺の育て方を間違えた母親

話は逸れるが、私の母は道徳的で常識的な人だったと思う。私という真っ白なキャンパスに母が描いたのは彼女自身の自画像であり、その結果私も母と似たような人間になった。彼女を尊敬しているのに違いはないが、最近母は私の育て方をある事に関しては間違ったのではないかと思うようになった。
母は私に「悪いこと」つまり「法に触れるようなこと」をしてはいけない、人に嘘を付いてはいけない、そのようないわゆる教科書的な「道徳」を叩きこんだ。
そのため私の判断基準は「道徳的に善か悪」であり、母同様出来る限りの「善」を選び続けてきたかのように思う。
というか、「悪」が出来ないのである。

母は人に嘘を付けないので、多くの場面でバカを見ている。
阿呆だと思う。私達のような人間は、人の弱い部分に滅法弱い。
が、世の中には自分の弱さを自覚し、それを存分に利用する人間が大勢いる。
彼女は人を騙せないのではなく、「嘘を付けない」だけだと最近気が付いた。私もそうである。
嘘を付けない彼女は、本当のことだけを人に伝える。それは心が弱いからである。蓋を開けば他者への依存でしかないことが多々ある。

何故「嘘をついてはいけないのか」「何故善い行いばかりを選択する必要があるのか」それを考えてこなかった私は現在痛い目を見ている。
教えられた公式通りに物事を図るのは実に便利だが、その分思考停止に近い部分がある。私は筆算が何故答えを導き出せるのか未だに分からない。

つまり何が言いたかったかというと、「人を傷つける笑いがいけない」というタイトルで終わってしまうと危険だということだ。

ブス!とかハゲ!とかあってもいい

「ブス」とか「ハゲ」という言葉がこの世から無くなればいいという考えは何の解決にもなっていない。褒め殺しが一番キツい。

以前、誹謗中傷をすると死刑になる時代の話を書いたことがある

           ~物語のざっくり要約~
頭皮の薄い相田という男がいて、同期の田島という男が冗談で「ハゲ」と言ったことで、彼は死刑になってしまった。
誰がどう見ても完全に頭皮の薄い相田であったが、周囲の人間は「めっちゃ髪、伸びてますね」なんてことを言ったりして、彼をハゲていないことにしてしまったのである                     ~続く~

こんなことがその内起こるかもしれないのだ。起きないだろう。
「ハゲ」という言葉を禁句にしてしまうと、それはそれで傷つく人間もいると思う。
私が芸人を目指したきっかけの内の小さな小さな一つに父親の自殺があるような気がするが、ないか。というかお笑いが好きな理由に、例えば私の親父の自殺がやり方によっては笑えるからというのがある。笑ってくれと私は思うのだ。
自らのコンプレックスや、苦い思い出を消化することが許されない世の中になってしまうと、鬱憤が充満してその内私は爆発してしまう。爆発とは、その名の通りの爆発であり、私の身体から爆裂、拡散する心臓や脳味噌を見て、誰も笑わないというのは、俺が最後に笑ってくれと思ってやった命懸けの大爆発ギャグを「可哀想。」「お察しします」等々リアクションで済ますことであり、って何の話だ。

「ハゲ」「ブス」という言葉を使ってする愛情表現もあるはずで、大切なのは関係値であって、言葉自体が消失する必要はないと私は思う。

見返すなそんな奴はほっとけーきミックス

話変えよう。てか、冒頭で書いた「最近思ったこと」は上記の話から少し脱線する。
SNSで「「ブス」と言われたこと絶対に忘れない。」的なツイートと共に過去の写真と、変わり果てた最近の自分の写真を投稿している人をチラホラ見る。あくまでも、こんな感じの旨のツイート、だが。
この類のツイートを見ると、彼、彼女達がした努力は凄まじいものだし、純粋に凄いなと思うのだが、同時に過去に「ブス」と言った人間は、彼、彼女達の人生を喰ったなと思う。
これは物凄く怖いことだと私は考える。
たった一言、軽はずみで言ったことが、他人の人生の方向性を大きく決定づけたり、時間を奪ったりする。

医者を目指す理由が、
「昔医者に救われた経験があって、その時に、、、」というものがあったとして、これにも私は同じ恐怖を感じる。
何が怖いのかは分からない。

ただ迂闊に人の人生を蝕むことができて、かつそれでいた蝕んだ張本人はそれに気が付かついてないということがあるかもしれない、ということを最近なんとなく思ったのだ。
社会を呪うようになっても、その復讐心によって傷つくのは社会ではなく、自分自身だ、みたいなことを福田恒存が言っていたのを思い出した。
なんの話だっけ。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。