親切ってなんだろう


久しぶりに松屋で朝食を食べた。

店員に半券を渡して待っている時のこと。

食べ終えた向かいのおじさん(行列のできる法律相談所でおなじみの菊池幸夫弁護士に似ていたので、以下、菊池もどき)が、「ちょっと、ちょっと。」と厨房内の店員を呼び出し、「箸が落ちてたよ。」と、1本だけの箸を渡した。1膳ではなく、1本である。おそらく、どこかのタイミングで、店員が下膳する時に落としたのだろう。

菊池もどき氏の行為は、親切だと思う。箸が落ちていようが、無視する客もいるだろうから。ただ、僕は考えた。僕だったらどうするだろう?

箸が落ちていたら、よほどひどい腰痛など、かがめない状況である場合を除いて、僕も拾うと思う。でも、厨房の店員に声をかけて、手渡すようなことはしない。自分の食べ終わった食器と一緒に、そっとお盆に入れておく。

理由は簡単だ。

「箸が落ちていた」というのは、朝飯時の忙しい店員に声をかけるほど、急を要することでもないし、重要なことでもないからである。

ここで、店員に声をかけて、事情を説明し、箸を手渡すことで、店員には時間と手間のロスが生じる。僕がそっと箸をお盆に置いておけば、店員は、僕の下膳をするだけでいいのに比べ、箸を手渡せば、「箸を受け取る」「下膳する」のツー・アクション必要になってしまうのだ。

僕は効率重視なので、こういう「ムダ」が生じる行為は好きではない。

こういう場合は、店員に渡したりしないで、自分の食べ終わったお盆にそっと置いておくのがいいだろう、と結論付けようと思ったが、待てよ、と、もう一人の自分が言った。

僕は、最近、「もし自分が間違っているとすれば、どんな可能性があるだろう。」と考えるようにしている。

今回も、そう考えてみた。
もし、僕の、菊池もどき氏の行動に対する解釈が間違っていたら、どうだろう?

そう、菊池もどき氏が、店員の手間を増やすことを知っていて、“あえて”手渡しにしたとしたら…

たとえば、こうだ。

菊池もどき氏が、客のけっこう多い朝飯時に、わざわざ店員に声をかけ、箸を手渡しにしたことで、店員は、「この忙しい時に…」とちょっとイラっとしたかも知れない。しかし、これこそが菊池もどき氏の遠大な計画の始まりなのだ。

イラっとするということは、感情が動いているということだ。感情を伴う場面というのは、そうでない場面よりも、記憶に残りやすい。おそらく店員は、「くそ忙しい時に、わざわざ落ちていた箸を渡しにきた客がいた。」というエピソードを、そこそこの時間、覚えていると思われる。

だとすれば、この店員は、意図するしないにかかわらず、箸を落とさないように、落ち着いて、ゆっくり下膳するようになるかも知れないし、布巾でカウンターやテーブルを拭く時に、箸やゴミが落ちていないか、それとなく床を見るようになるかもしれない。

そう、つまり、店員が「箸が落ちていたこと」を認識することで、今後、箸やゴミが落ちている頻度が減る可能性が高まるのだ。

菊池もどき氏が、そこまで考えていたかどうかは定かではない。  

しかし、「遠大な計画に基づく親切は、一見、不親切にも見える」ということを、菊池もどき氏は、僕に教えてくれた。

そこまで考えた時、なぜか一仕事終えたような気がした僕は、変な満足感を感じて、危うく席を立つところだった。

腰を上げようとした瞬間、「お待たせしました。」と店員がソーセージエッグ定食を運んできた。

そうだ、僕は朝めしを食いに来たんだった。

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