ままならないから話をしよう。私たちの幸福のこと 『Dark Blue Kiss』
私が『Dark Blue Kiss』に出会ったのは突然で偶然だった。当時の私は、とっくに放送の終わっているノルウェーのシリーズ『SKAM』に夢中で(しつこいくらいに今も夢中)、全シーズンを観終えて2年程経っているのに、まだ本編や関連映像を繰り返し観続けていた。
その日もYouTubeをのぞいてみると、ずらりと並ぶおすすめ動画たち。当分飽きない予感…と思いつつスクロールしていくと、美しいサムネイルが目に留まった。
何故なら、『SKAM』シーズン3のあるシーンを彷彿とさせる画像だったから。それこそが『Dark Blue Kiss』だったのだ。そしてそのサムネイルのシーンは、おそらく一生忘れられないであろうシーンになった。
YouTubeがおすすめしてくる動画、いつもまんまと観ちゃうんだよね。これは…この文字はタイ語かな?そういえばタイの映画は観たことがあっても(アピチャッポン監督大すきです)、TVやWEBシリーズは観たことがない。
気になる。英語ギリギリアウトだけど、字幕がついてるなら何とか理解できるかも。EP1から観てみよう。そんな風に軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで観始めたのだった。
有り難いことに全てのEPに日本語字幕が付いていて、すんなり物語へと入り込めた。そしてすぐに思う。これは出会ってしまった、と。
大事な作品は幾つかあるけれど、それまでは喜びも哀しみもとにかくリアルな『SKAM』に匹敵する作品には出会えていなかった。でもこの作品は私にとって、とりわけクィアであることを重点に置いた作品の中で、何の前触れもなく贈られた宝物のような、たいせつな作品となった。
今や『Dark Blue Kiss』も繰り返し観る日々に突入している。毎度ながら感動してしまうのだが、私の視点から感じたことを一度まとめておきたいと思い、百年ぶりにこうしてnoteを開いている次第。
先に言っておくと私の性自認は女性で、自分のセクシュアリティについては、パンセクシュアル(性別やセクシュアリティを前提とせず相手に惹かれる)が一番しっくりくると思いつつ、未だに定まっていない。という状態。
そのため、私には男性同士の交際という経験が(今のところ)無いし、そこには自分とは違う悩みがきっと沢山あると思う。それでも作品を通し感じたあれこれや社会に思うことを共有出来たら、クィアの一員としてほんの少しでも、日々考えていることを伝えられるかもしれない。何より、一度きちんとこの作品の素晴らしさを言葉にして残しておきたい。そう思い、キーボードをパタパタと打っている。
・『Dark Blue Kiss』大体のおはなし
導入で真面目なことも書いたけれども、やはり観てもらわないと始まらないし、是非観てほしいし、いやもう誰かと一緒に語り合いたいんだよ、という思いにまで、こちらは既に到達している。あらすじを紹介しながら、ちょっとだけおすすめの感情も隠さずに挟み込ませてください。
◇あらすじ
付き合って3年になるPeteとKao(馴れ初めが知りたい方は『Kiss Me Again』から、PeteKao誕生の瞬間から観たい方は『Kiss The Series』をご覧ください)は、工学部で学ぶ大学3年生。
短気であまり勉強が得意でないPeteは、裕福な家でやさしい父親に育てられた。Kaoとの付き合いも、自分のこともよく理解してくれる父親とは何でも話せる間柄。
一方で穏やかな性格のKaoは、勉強が得意な優等生。違う土地で勉強する妹や家計を助けるため、家庭教師のアルバイトをしている。正反対の2人だが、それぞれが抱える悩みを共有し支え合ってきた。
何不自由なく見えるPeteは将来への不安を抱え、未熟な自分と優秀な親戚とを比べては自信を喪失してしまう。そんなPeteをKaoは優しく励ましながら見守っている。(自分を卑下するPeteに、それなら僕が価値をあげると10バーツ付箋を貼るKao、愛くるしい)
そんなKaoも、Peteを心から思いながら、彼と恋人同士であることを周囲のひとに打ちあけられずにいた。同じ工学部の仲間や大事な母親にも、伝え方やカミングアウト後の反応に不安が拭えず、関係を隠したままだ。PeteはKaoに、もっと自分たちの関係性をオープンにしてほしいと思いながら、言い出せずにいるKaoの状況をふまえ、時々解決策を提案したりしている(割と強めに)。
2人の悩みはいずれも、周りの人々へ自分のことをどう伝えるか?どういう自分になり、どう見てもらいたいのか?という、自己と周囲にまつわる問題である。そしてその問題こそが、今まで築いてきた2人の関係性に影響を及ぼしていく。
Peteはある日、知り合いに頼まれたコンテスト参加を断るため先方を訪れる。そこで出会ったコンテスト参加者で高校生のNonと衝突をしたことで、負けん気に火がつき、一転してコンテストへの参加を決意。
友人の兄・Sunが営むカフェで生徒に勉強を教えていたKaoも、アクシデントからNonと顔見知りに。実はNonはKaoの母親が勤める学校の校長先生の息子だったのだ。その縁からKaoは、校長先生より直々にNonの家庭教師を依頼されることになる。
独占欲が強く、元々Nonといがみ合っていたPeteは、KaoにNonの家庭教師を辞めて欲しいと頼む。Kaoも自分たちの関係がこじれる位なら辞めるとPeteに伝えるが、ちょうど家の事情でお金が必要になってしまう。きちんと事情があるものの、Nonに教えることを話せばPeteと揉めたり、関係にヒビが入ってしまうかもしれない。恋人を大事に思うあまり、現在の関係に問題が生じることを恐れたKaoは、Peteに黙ったままNonの家庭教師を続けることにするが…。
・当事者の声を伝える丁寧さ
『Dark Blue Kiss』では、自身のセクシュアリティの話が度々交わされる。その会話は、彼らとはセクシュアリティが違う私でも、社会に生きるクィアのひとりとしてものすごく共感する内容だった。
そして素晴らしいのは、その会話が決して大袈裟なものではなく、あくまで日常の自然な流れの中で丁寧に描かれることだ。そうすることで、みんなが生きる社会でクィアが確かに存在しているという事実を見せ、日々の感じ方・考え方を世界中に伝えることに成功している。個人的に印象的だったシーンを幾つか挙げてみたい。
(※ストーリーをまとめた内容や引用した台詞は、公式動画に日本語字幕を付けて下さっているTayNewJapanFCさまの日本語訳を元に、又は引用させていただきました)
◆PeteとKaoが、子どもの立場からセクシュアリティについて話すシーン
この作品に心を掴まれるひとが多いシーンがここではないだろうか。少なくとも私はこのシーンで、このシリーズがクィアである人々の言葉を伝えようとしている姿勢を感じた。
家族が大事だから、セクシュアリティのことで落胆させたくない。自分を誇りに思ってもらわないと。そんな子どもとしての思いを吐露するKao。また自分の成長は自分のためで、親に誇れる何かが欲しいからそうする。男性がすきだからといって、他人より頑張らなくちゃならないなんておかしい。というPeteの率直な言葉は、未だ根強く異性愛を前提とする社会に向かって投げかけられたひとつの主張である。
このような恋人たちの会話が世界のどこかで実際にされていても、直接目にする機会はそう無いだろう。考えもしなかったことだと感じるひともいるかもしれない。だからこそ恋人たちの日常の一部として、このシーンを文字通り目の前で見せてくれることは、とてつもなく大きな意味のあることだと思う。私たちが感じていることを声に出し、“実際にあること”として伝えてくれる役を担っている。
ふと、みんながみんな家族に打ち明けているわけではないよな…と気になり、日本の状況を見てみた。LGBT当事者(このタイトルもどうかと思う。その他のセクシュアルマイノリティも対象の調査なのだから、せめて“LGBTQ+当事者”というタイトルにして欲しい…)向けの調査で、家族へカムアウトしているひとは友人にカムアウトしているひとより少なく、全体の半数ほどに留まっている。(出典:LGBT当事者2600人の声から/NHKオンライン)
このことからも、家族へ打ち明けることは友人に話すこととはまた違った難しさがあるということがうかがえる。状況によっては、家族に拒絶され、住む家を失ったりするリスクも十分に考えられるだろう。
私の個人的な経験から言えば、今よりもっと自分のセクシュアリティがモヤモヤしていた時に、家族から結婚の話をされるのはとても辛かった。自分のセクシュアリティすらよくわからない=何が自分の幸福な生き方か模索中なのに、世間が勝手に作った幸福の形に無理やり当てはめられてしまいそうな気持ちになったからだ。体調を崩すほど必死に働くことで、ようやく<結婚しない=一般的な幸福ではない生き方>を許されたようだった。
しかし本当は、許される必要などないのではないか。本来なら、親も子も、それぞれ形が違っていたとしても、互いの幸福を願えばいいのではないか。たとえ社会が一般的でないと判を押していても、それは社会が作り上げた認識に過ぎない。変わらなければならないのは、多数派の幸福の形しか認めない社会であり、私たちそれぞれの幸福の形ではない。このシーンは、社会とそこに生きる自分に対し様々な思いが巡る場面だ。
◆MorkがRainにアウティングについて話すシーン
親友である2人が話すこのシーンは、アウティングについての意識を改めて教えてくれる。自分と恋人とのことを、友だちのRainが勝手に第三者に話したとMorkが指摘するシーンだ。
Morkは他でもない親友のRainだからこそ、恋人とのことを打ち明けた。Morkにとっては誰にでも話せることではなく、誰に話しどう話すかという決断は自分にだけ許された権利である。
Rainの様子からしても悪気が無いのは見て取れるが、自分で勝手に判断して話してしまったことは事実。アウティングはアウティングである。本人が望まぬ形でセクシュアリティを晒されることは許される行為ではない。親しさの度合いに関係なく、本人の決断によってのみ許される行為だと訴えるシーンだ。
セクシュアリティを晒されるリスクは、個人によって差があると思う。私にとってはものすごくデカい。Morkのように、カミングアウトに対する自分の考えを伝えることはとても重要だ。私はあなたを信用して話したけれど、誰にでも話していいというスタンスではない。だからこのことは、たとえ共通の親しい友人に対してでも、伝えるかどうかの権利は私にあると忘れないで、と。
勿論、クィアコミュニティに関する社会の理解や可視化がもっと進み、当事者がアウティングの不安を抱く必要がなくなることを、何より望んでいるけれども。
◆KittyがSunと親友になったいきさつを話すシーン
バリスタコンテストに出場するSunのため、アドバイスをしに来たKitty。2人は以前、恋人同士だった。反発しながらもSunに惹かれているMorkは、Sunをよく知っているKittyの存在が気がかりに。
Morkの気持ちを察してか、KittyはSunと別れた時、彼から女性は恋愛対象ではないと言われたことを伝える。そしてKittyは、自分は今、女性に惹かれ始めているという話もする。
私にガールフレンドが出来るかも、というKittyの言葉は、男性に惹かれ戸惑うMorkの気持ちを肯定し和らげている。セクシュアリティが流動的なひともいて(そうでないひとも勿論いる)、誰かに惹かれて初めて気付くこともある。そのことを肯定する場面だ。
自分の経験をもとに実感を持って伝えるKittyの言葉から、Morkへのさり気ない励ましとやさしさが垣間見える、とてもすきなシーン。
・簡単でないけれど理想が与える希望を <家族との関わり>
あらすじでも挙げたように、Peteの父親は、子どものセクシュアリティにとても理解がある。その姿は私に「こんな親ばかりではない」と思わせながらも、もし自分の親がこんな姿勢を見せてくれたなら、私の人生は、より幸福だろうとも思わせた。
理想を描いているだけだと言ってしまえばそれまでなのだが、理想を描き、フィクションだとしても幸福な姿を見せることは大事なことだ。その理想は観ているひとの肯定感に繋がる。私たちは幸福になって良い。描かれた理想を目にして、自分なりの理想の幸福を考えても良い。自分が社会に当たり前に存在し、当たり前に幸せになることを理想に掲げ願うことは、自分が何より社会に求めることそのものだと思うから。
しかし、このシリーズでは理解ある家族だけが登場するわけではない。子どもと話すこと、善悪を教えることを怠り、自らの考えだけを押し付けてきたNonの父親が正反対の存在として描かれる。そしてその様な父親に育てられたことが影響し、Nonの行動は結果的に誰かを傷つける刃となる。
Nonの父親はPeteの父親と対照的な父親像だが、そこには作品全体のテーマに繋がる“大事なひとに大事なことを話す”たいせつさが込められているとも感じた。特に本作では、家族との対話の難しさ、重要性が描かれているので、幾つか触れてみたい。
◆カミングアウトに悩むKaoと、それに対し意見を伝えるPeteのシーン
このシーンで私が最も共感したのは、KaoがPeteと恋人同士であることを母親にどう話せば良いかわからない、と言うところだ。恋愛の話を家族とするひともいれば、そうでないひともいて、それぞれの家庭の状況により異なると思う。だから一概に言えないのだが、私の場合は後者だ。
今まで母親と恋愛の話をしてこなかったKaoは、そもそもどう話を切り出せば良いのかがわからない。その上、Peteとの交際を打ち明けるならば自分のセクシュアリティのことも話す必要がある。不安が無いはずがない。
それに対しPeteは、親はわかっているはずだから大丈夫だと励ますが、それは理解ある父親がいるからこそ出てくる前向きな意見だ。Kaoの場合もまた、自分を誇りに思ってくれる母親を心から愛している。けれどもそれ故に、母親の自慢の息子像にカミングアウトが影響するのではないかという心配が拭えない。
この会話の後に続くPeteの言葉も、とても真実味がある。自分たちは何故、子どもの頃に親とこういう(恋愛や性の)話をしなかったのか。という言葉だ。もし少しでも話をしていたら、今よりもっと話しやすい状況だったかもしれない。不安も減ったかもしれない。
個人的には、親と恋愛や性の話をするなんて想像も出来ないけれど。でも、もし話が出来るような家族の関係性があれば、例えばセクシュアリティの悩みを抱えた時、話してみようと思う自分がいたかもしれない。ひとりで抱える悩みの負担が減るし、一番近いところで大事な理解者を得られる希望を持てたかもしれない。
そういった関係性を築くために、親は様々な話をして子どもを理解する必要がある。そうすれば子どもは親の話に耳を傾け、つらい時には心を傾ける。少なくともそうしやすい状況を作れる可能性がある。互いに話をし、関係性を作っていくことが家族にだって必要なことなのだと改めて感じるシーンだ。
◆Peteの父親が、当事者の家族の思いを話すシーン
このシーンに関しては、本当にただすきなシーンなので紹介したいという思いが強い。こんなひとが自分の親だったら、最高じゃないか。そう思うから。
Peteの父親が、同性との交際を友人に話すことは、本人たちだけでなく親もよく考えなければならないと話すこのシーン。Peteの父親の言葉は、全てのクィア当事者の親にお手本にしてほしいと思う位、あたたかく愛情に満ちている。
“だが、私は心配はしていない
私たちは友人にただ真実を伝えれば良いのだから”
“これが私たちの子どもたちだ こうやって育ててきたんだ、ってね”
<中略>
“これが彼らの人生であり 彼らの選択であり 彼らの幸せなのだから”
引用元:『Dark Blue Kiss จูบสุดท้ายเพื่อนายคนเดียวEP.12 [2/4]』/GMMTV
※日本語字幕:TayNewJapanFC
これらの言葉からは、子どものありのままを受け入れ、それを誇りにしている気持ちも感じられた。またKaoの母親が、子どもの幸福を理解することは難しいことじゃない、と続けることも素敵。子どもにとっての幸福を理解し、それを応援する親の姿勢を見せるこういったシーンが、フィクションにおいてもっと増え、ノンフィクションにも影響してほしいと思うばかりだ。
◆Kaoと母親がそれぞれの思いを伝えるシーン
母親からKaoへの全面的な信頼が感じられるこのシーンは、初めて観た時に私が大号泣したシーンだ。心ない噂に傷つき、苦しい状況に立たされたKao。そんな息子に対し、理解と信頼、そして愛情を伝える母親。もっと話をしていれば、こんなにもつらい状況にならなかったのに…と互いに謝り合う姿からは、悔やむ気持ちとともに愛情の深さもうかがえる。
私たちは親子だから、何でも話して良い。母親のその言葉に、どれだけKaoが勇気を貰っただろうか。本当はこう思っている。でもこう考えてなかなか言い出せなかった。正直にそう打ち明ければ、心を通い合わせることが出来る。話をしないよりは、きっとずっと。
・結婚への言及
タイでは2020年7月現在、同性婚は認められていない。結婚と同等の権利が得られるとする<市民パートナーシップ法案>が承認された(2020年7月10日)ばかりだが、“結婚”が認められているわけではない。法的に同性カップルの権利を認めながら、婚姻制度と同じ全ての権利が与えられるわけではないという現状だ。
そして単純に、“結婚できる”と“事実上の結婚と同等”では大きな違いがあるだろう。「私たちはパートナーシップを結んでいます」と「私たちは結婚しています」には、幾ら中身が充実したものであっても、イコールで結べない壁がある。その壁は、どこまで社会に受け入れられ認められている関係性なのか、という“差”そのものだ。
日本と比べタイは多様なセクシュアリティに寛容なイメージがあるが、差別も確かに存在し、多くのシリーズの中でもホモフォビアやトランスフォビアの存在が描かれている。(個人的に一番つらかったのは『Until We Meet Again』でした…。でもきちんと何が問題なのかも描かれていて、すごく心に残っている)
『Dark Blue Kiss』の放映は2019年10月~12月で、ちょうど同年6月にトランスジェンダーなどクィア当事者の国会議員が誕生したこともあり、同性婚へ大きな進展があるのでは、という期待がされていた頃。 (出典:タイでLGBTの国会議員が4人誕生、同性婚実現にはずみ/OUT JAPAN co.,Ltd.)
結婚について言及する本作のシーンを目にすると、そこに込められた思いを感じる。それと同時に、もし同性婚が認められている社会のPeteとKaoだったら、全く違う物語があったのではないかともどかしさも感じてしまう。その2つの視点から、結婚についての話題があがっているシーンについて書いてみる。
◆Kaoが結婚観について話すシーン もし、違う社会の中だったら
Peteが2人の将来についてどう思う?と尋ねると、Kaoは結婚について考えたことが無いと言う。互いの存在があり、一緒に居られるだけで十分だと。そんなKaoの言葉に対しPeteは、そばにいて信頼してもらえる人間になりたいと伝える。とてもロマンティックで、2人の幸福の形が見える素敵なシーンだ。
そして私は、“もし”を考えてしまう。もし同性婚が認められている社会だったら、2人はもっと具体的な将来の話を出来るかもしれない。たとえ決定事項がなくても、想像することは出来るし、その想像が人生においての希望に繋がる可能性だってある。結婚について考えたことが無いというKaoの意識も、実際に自分が結婚出来る社会であったなら、考える機会があるかもしれない。
勿論結婚こそが唯一の幸福の形であるわけではないし、それは本作から伝わるメッセージにもある通り、愛し合う人々のそれぞれの問題だ。ただ、実現できる幸福の選択肢として結婚があるのとないのとでは、大きな違いがあるように思う。
カップルたちの幸福の差は、そのまま社会での幸福の差になるのではないだろうか。ひとつでも実現できる幸福の選択肢が増えれば、ひとが幸福になる可能性も増える。個人の幸福はきっと、社会全体の幸福へと繋がるだろう。個人によって作られていない社会など、存在しないはずだから。
◆Kittyのお店へカップルが来店するシーン ニュースになる結婚
Kittyが営むお花屋さんに男性同士のカップルが訪れるシーン。ブーケをKittyに依頼し、それを引き取りに来たのだ。カップルの2人は、いつか結婚出来る日が来たら、結婚式は挙げたくないと言う。理由は“ニュースになりたくない”から。
何故か同性同士で結婚式を上げるとニュースになるよね、とこぼす彼らの姿からは、特別視されることへの当事者としての疑問がうかがえる。異性同士が結婚式を挙げたところで、話題になることは滅多にないのに。
このシーンで私は、確かに、と率直に思った。ニュースになる=特別な、話題になる出来事であるということだ。そして同性婚を特別視するその目線は、異性婚を前提とした社会から生まれたものだ。
また“もし”を使ってしまうが、同性婚が認められ、そのことが社会に存在する制度として当たり前のものとなれば、その時はもう同性同士の結婚もニュースにならないだろう。だが今は、異性婚に比べ同性婚は、まず法的に認められている国が限られており、まだ30か国にも満たない。
(出典:世界の同性婚|NPO法人 EMA日本)
いつかより多くの国で同性婚が認められ、同性同士の結婚がニュースにならない日が来ることを願う。Kittyの店を訪れたカップルを見て、羨ましく思うSunのような別の当事者へ、幸福の選択肢がひとつでも増えるように。法的にも社会的にも認められた幸福の権利が、求めるひとへ与えられることを願わずにいられないシーンだ。
・だってたいせつなんだ だから、難しい
『Dark Blue Kiss』で起こる様々な問題は、相手の話に耳を傾けないこと、そして相手に正直な気持ちを話さないことによる。対話のたいせつさを痛いほど感じるストーリーであり、何故話を出来ないのか、何故相手の話をまず聞けないのか、と思わず口を挟んでしまいたくなる。
しかし、Kaoが秘密を作ってしまうことも、Peteが秘密にされたことを怒る気持ちも理解できる。それぞれの状況もあるが、2人は互いを大事に思うからこそ話すことを恐れ、傷つき腹を立てたのだ。
PeteとKaoの関係で言えば、2人が恋人同士であることをオープンにしていれば、状況は全く違っていただろう。堂々と恋人だと宣言出来ないままでは、Nonが優しいKaoに惹かれ積極的になる気持ちもわかるし、KaoがNonの気持ちをキッパリと拒絶することも難しい。
しかしこの問題の根底にあるのは、同性同士の交際をオープンにしづらい社会の雰囲気だと感じる。同性同士の交際について話しやすい社会だったなら、Kaoはもっとオープンになり、自分のセクシュアリティが母親をがっかりさせるかも、という不安も少なかったかもしれない。Peteと自分は恋人同士だ、とNonにハッキリ言えたかもしれない。
社会において同性愛の理解が進めば、同性愛者が居場所だと感じられる社会に繋がり、しなくてもいい苦労や気にしなくても良い遠慮をする必要が無くなるかもしれない。
同性に惹かれ誰にも言えず悩んだり、親に拒絶されることを恐れセクシュアリティを隠したりといったことは、はっきり言って無い方が良い。“誰にも言えない気持ち”を独りで抱えることはものすごいストレスだ。
そんな苦しみを味わうのは、自分のせいなのだろうか?社会には何の責任もないのだろうか?ただクィアであるだけで苦しまなければいけない正当な理由がもし私にあるなら、教えて欲しい。
本作からは、これまで記してきたような社会に対するメッセージが、しっかり伝わってくる。今生きている社会の現状、変えていかなければならないこと、そしていつだって絶対に守られなければならない、私たちそれぞれの幸福のこと。家族や大事なひとと、お互いのことを話す重要性。そしてその難しさと、そこに根づく社会の認識。
このシリーズを観る度に、私には決意が増えた。何が幸せかわからなければ、話をしよう。理解する姿勢を持とう。状況が難しければ、それを言葉にして伝えよう。私たちの幸福を無いものとする社会に、これでもかと幸福な姿を見せつけてやろう。そうしたひとつひとつの行動が、様々な幸せの存在を肯定することになるから。互いの幸福を肯定し、信じよう。また新たな幸福を実現させるために。
最後に、本作が伝えてくれたメッセージにならって、今思うことを言葉に残してみる。
改めて『Dark Blue Kiss』に出会えたことに感謝する。PeteとKaoを生み出してくれたGMMTVさま、監督やキャストの方々、スタッフの方々に感謝する。あの日、サムネイルを観てEP1をクリックした自分に感謝する。公式動画に素敵な日本語字幕を付けて下さったTayNewJapanFCさまに感謝する。様々な感想を発信してくれる世界中のファンの方々に感謝する(いつもニコニコしながら見ています)。
沢山の気持ちと、深い思慮を与えてくれた『Dark Blue Kiss』に感謝する。
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