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受け取り手のいない小包

春が終わりを迎える頃。
共有のポストに届いていた小包の宛名をみて、私は気持ちのやり場にすこし困った。

「生花が入っています」
と書かれた、新書サイズほどの平たい箱。
宛名の彼女はいま、この場所には居ない。
どこに居るのかもわからない。
数日前に出て行ったのだ。

雨予報の日だった。彼女は、
「ベッドに置いてあるものに変わりはない?荒らされたりしてない?」
と言い、他の人に同じことが起きていないか気にしていたようだった。
ドミトリー形式の部屋には、完全なプライベート空間は存在しない。強いていうならば、ベッドが最もプライベートな居場所だ。

私が買い物をして帰宅した直後の出来事で、
あまりに突然聞かれたから怖くなった。
慌てて確認したものの、特段変わっていることもなくいつも通りだった。他の人も、特に変わったところはないようだった。

しかし、最もプライベートな居場所を荒らされたと感じた彼女の精神状態はかなり不安定に見えた。
誰が、どんな目的でそんなことをしたのか?
彼女はしきりにそれを気にしていた。

「疲れているから自分の思い込みなのかもしれない。」
とこぼしていたが、それを言う彼女は正気ではなく、自分の感情をうまく処理できていないようにも見えた。
周りの言葉に対しても、会話が成立していなかった。口から出ているのは、脈絡のない言葉たちだった。

奇しくもその日は、私の誕生日だった。
ケーキを作ろうと意気込んで帰宅した時の出来事だった。
彼女の居る部屋はあまりに空気が重たく、長く居られないほど張詰めていた。
私は思わず外へ出て、スーパーへ向かった。
苺を買い忘れていたというのもある。寧ろ買い忘れていてよかった。
ずっと居ようものなら、あの重たい空気に飲み込まれてしまいそうだった。

歩きながら、いてもたってもいられず友人に電話をかけた。話を聞いてもらっているうちに、なんだか少し泣けてきた。大失恋の時も同じように友人に電話で話を聞いてもらっていたっけ。もちろん、失恋した時の方が圧倒的に泣いていた記憶がある。
どちらにせよ、友人の存在はほんとうに偉大だ。

スーパーに入るや否や、大好きなバンドの曲が耳に飛び込んできた。軽音部だった時、コピーバンドを組んで歌った思い出の曲。私のために流れているんじゃないかとすら思えた。
聴こえる声は、
「君に会いに来たんだよ」と唄う。
嘘みたいな、ほんとの話だ。

平静を装ってどの苺パックを買うのか吟味し、流れる曲を最後まで聴いて店を出る。
帰るのは気乗りしなかった。でも、今日はケーキを作って食べると決めていたし、電話の向こうの友人にもそう宣言していた。
それだけが、その時の私の帰る理由だった。

キッチンで、黙々と生クリームを泡立てた。キッチンと部屋が離れていてよかった。
いつのまにか、外はどしゃ降りの雨だった。
そういえば、彼女は雨の日に体調をくずしやすい人だった。

久しく耳にしていなかった、雷の音がした。
彼女の異変を察知したのだろうか。
それは、警告音のように鳴り響いた。

いつも耳にしていたのは、ふちのある眼鏡をかけた彼女が、ずれたそれを手で直す音。
でも、この日は聞こえなかった。

なぜいまこんなことを書いているのだろうか。
箱の中で誰の目にも触れず枯れていく花たちと彼女を、ふと重ねてしまったのかもしれない。
彼女の心は暗い箱に閉じこめられて、触れることが許されないもののように思えた。
私にできることといえば、温かい飲み物を提供することくらいだった。
あとは、なにもできなかった。

その日食べたケーキの味はあんまり覚えていない。でも、出来たてのケーキなんだから美味しかったはずだ。そう思い込もうとする自分が、なんだか情けない。

宛名の彼女はいま、この場所には居ない。
どこに居るのかも、わからない。
それはもはや、この世かもしれないし、あの世かもしれない。

生きていてほしいと思うのはたぶん、3か月間とはいえ、確かな時間を近くで過ごしたという事実と、自分が傷つきたくないという感情があるからだ。
無責任な言葉だから、口にはしない。
それでも、どこに居たっていいから、ずれた眼鏡を直しながら笑っていてくれたらいいな。
私は小さく願うことにした。

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