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【鬱屈日記】散歩道

医師が例えば医療に詳しいからと言って健康であるわけではない。
いつまでも若く健康で無いのはだれも変わらない。
長く健康になれる裏技も、風邪を早く治す裏技もない。

衰えるのは肉体だけではない。
医師の能力はあるところでピークがあるような無いような、
そういうところから伸びなくなる日がきて、だんだん落ちてくる。
目の前のことや、新しい治療、今までわかっていなかったことに対しての勉強や研鑽をやめてしまえば、そして自分は一人前と思ってしまったときが終わりの始まりだと思っている。
いつの日か自分の無知を反省することなく、いつかは自分の考えに拘り、徐々にわからずやになってくる。
それは今、既にそうかもしれない。
抗っても抗っても時は来て、一生懸命仕事をしていても、そのうち周りからは老害として疎まれてくる。
その時は既に世の中がみえず、自分の考えこそ正しいと言い始めれば、それは引き際すら誤ってしまった、悲しいお爺さんとなっているだろう。

こうして医師としての死は忍び寄ってくる。
残念ながらピークを過ぎ、何を成し得たものでもない自分にとってやってきている悲しい現実である。

医師としての死は、平均余命を達成するのであれば、人としての死よりも早くやってくる。さてその過程で、医師でない人としての自分に何が残っているのか、振り返るとぞっとする。

何もない。
勉強した。医者になった。働いた。終わり。 

それだけじゃまずいから趣味を持ちなさい、その通りである。しかし、何も見つからなかった。何か趣味をやらなければならない、趣味を見つけられなければ豊かな人生を送れないのだろうけど、その何かというものがわからない。そのため、本当は自分に何ができるのかもわからない。何ができるのか、だれか答えを持っているのなら、教えてほしい。一生をかけて自分の中でその答えを見つけるとか言うのも、もう勘弁してほしい。


最近は休日に歩くようにしている。当てもなく歩いているときは気が楽だ。前をみて、いや前でなくてもぶつからなければ斜めでもよい。ここを曲がればいいのか、どう曲がればいいのか、当てもないからなんでもいい。人生を豊かにする素晴らしい趣味もみつけなくていい。素晴らしいアイデアを思いつかなくていい。彷徨ってるんだから。
自分は動くタンパク質とか脂肪で出来た塊であり、今は骨のまわりに筋肉がついて動いている。ただそれだけ。
当てもなく歩いているときは、つまらなくはなくなる。

いつまで歩けるのだろうか。

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