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孤独な卑怯者

孤独によって駄目になることを選んだ人生の話、いや、駄目になるのを孤独のせいにする卑怯者の話をしようと思う。

人生にとって40前後は、特に仕事において一番大切な時期だと思った。
この年代を迎えるとき、僕は今までたくさんの仲間と仕事をしていた後、不幸にもとても厳しい目にあい、出ていかなければならなくなった。仲間とはとても仲がよく、今でもそうだ。だけれども仕方がなかった。
逃げるのは悔しくて、ステップアップとして自分のペースで楽しく仕事をすることになった。これから何が起こるのか、わくわくする人生を送る・・・

はずだった。

おそらくの敗因は自分が一人であること。どうやら、自分は孤独に弱かったようだ。自分が仕事で行き詰まったとき、腹がたったとき、嬉しいときを共有できる仲間、そして今から何をやろうかと「何か進んでいる感じ」が出来るような、そんな仲間がまだ必要だったようだ。行き詰まったとき、腹がたったとき、嬉しいときも、ただ自分は一人だった。仲間の近況を聞くと、自分はどこかに取り残されてしまったようだった。

少しずつ、少しずつ僕は落ちていき、そして決定的に行き詰った。最後はほとんど自暴自棄となった。その時、周りには誰も居なかった。落ちていくことは止まらなかった。

落ちていくことを「選んだ」と皆はいうだろう。きっと感情なんてそんなもので、他人から、環境から影響されて「染まった」なんていうことは無いのだ。最後のギリギリの一線は自分で積極的に選択しているのだ。ほら、お前は自分で選んで落ちていっただろう、指を刺され笑われるんだ。その感覚が頭から離れない。

悲しんでいる自分に「酔う」のではなく、時にはいろいろな人の声に耳を貸し、何ができるのかを考えるんだ。確かにそうだろうし、それが正解だと思う。だけど、それは人の声に耳を貸せない、自分に酔うような奴はどうしようもない。やめればいいんじゃないか。そう聞こえるようになった。

そして、今できることを考え、再起していくのはあくまで再起不能の若者の特権であると思うようになった。いや、年齢のせいにして、選んだのは自分自身というのかもしれない。
そして自分は怠惰となった。

ああ、とりかえしのつかないことになった。

本当にそうだろうか。もともと取り返しがつかなかったのがわかっただけではないか。たぶんそうなんだろうと思う。思えば失敗を何かのせいにしてばかり、恥を何度も重ねる人生を送ってきた。そうやって、何にもなせないまま、しないままこんな歳になっていた。
怠惰は自分が作ったもの。すべて言い訳。そんな自分が誇らしくないのは当然のこと。悔やむことでまだ、自分を正当化しようとしている。承認欲求のかたまり、それが僕なのだ。

どうして僕は勤勉で、真面目に生きなければならなかったのだろう。周囲のためなんだろうか。それが映えるから?いや違うよね。自分のため、そうだよね。でも自分って何をどうしたかったんだっけ。
そして何もかもがしんどくなり、楽しくなく、ただ頑張れずにあれやこれやと不満を思いながらただ生きているだけ。怠惰をぶら下げて歳をとって、棺桶に向かって少しずつ歩き続ける。

もう取り返しがつかないことにしているのだ。

ただ、孤独だった。本当に孤独だった。淋しかった。




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